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2024年9月1日 三位一体後第14主日
説教題:挑戦的な食卓
聖書: ヨハネによる福音書 6:1–15、列王記 下 4:42–44、詩編 14、コリントの信徒への手紙 一 11:23–26
説教者:稲葉基嗣
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ヨハネは、パンと魚はひとりの少年が持っていたものだったと記しています。
けれども、イエスさま以外、誰もこの少年に期待していません。
誰もこの少年の手元にある食べ物に可能性を見出していません。
5つのパンと2匹の魚で、5千人以上の人たちが満足できるのでしょうか。
それはもう、絶望的です。無理な話です。
ですから、食べ物の必要性を訴えるイエスさまに、
自分たちの手元にはほとんど何もないことを伝えるために、
アンデレは、イエスさまとの会話の中で、この少年を紹介したのでしょう。
この少年はまるで、諦めと無力さの象徴のようです。
でも、イエスさまにとって、この少年も、少年が持っていた食べ物も
決して取るに足りない、小さく、僅かな、役に立たないものではありませんでした。
少年からパンと魚を受け取ったイエスさまは、
感謝の祈りをささげ、それらを人びとに配りました。
最後には、どうなったのでしょうか。僅かなパンと魚によって、誰もが満足しました。
それは、弟子たちの努力の結果でもなければ、
弟子たちが持ち合わせていたお金の力でもありませんでした。
人脈やその土地についての知識によるものでもありません。
この物語が大きく動くきっかけとなったのは、一人の少年の存在でした。
貧しく、力もない、希望も感じられない、社会的にとても小さな存在である、
この少年がイエスさまに差し出したものが、この少年の命だけでなく、
多くの人の命を支えることに用いられました。
このように、少年の持っていた食べ物が分かち合われることによって、
山の草原でこの大きな食事の交わりが始まりました。
この食卓は、現代に生きるわたしたちにとって、とても挑戦的なものです。
というのも、わたしたちが目を留め続け、価値を認め続けるものは、
力があり、頼りになるものだからです。
でも、イエスさまがわたしたちを招く食卓においては、
わたしたちが目を留めないものに、イエスさまは目を留め続けます。
そして、わたしたちが取るに足りないものと考えるものを
イエスさまは大きなものとして扱われます。
言い換えれば、誰もが神に用いられ、神の働きに加わっているということです。
わたしたちは、役に立つか、役に立たないかといった基準で人を見つめません。
誰もが神に用いられる、素敵な人だからです。
それこそ、イエスさまの望むやり方であり、イエスさまの望む交わりの作り方です。
By 小山ナザレン教会2024年9月1日 三位一体後第14主日
説教題:挑戦的な食卓
聖書: ヨハネによる福音書 6:1–15、列王記 下 4:42–44、詩編 14、コリントの信徒への手紙 一 11:23–26
説教者:稲葉基嗣
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ヨハネは、パンと魚はひとりの少年が持っていたものだったと記しています。
けれども、イエスさま以外、誰もこの少年に期待していません。
誰もこの少年の手元にある食べ物に可能性を見出していません。
5つのパンと2匹の魚で、5千人以上の人たちが満足できるのでしょうか。
それはもう、絶望的です。無理な話です。
ですから、食べ物の必要性を訴えるイエスさまに、
自分たちの手元にはほとんど何もないことを伝えるために、
アンデレは、イエスさまとの会話の中で、この少年を紹介したのでしょう。
この少年はまるで、諦めと無力さの象徴のようです。
でも、イエスさまにとって、この少年も、少年が持っていた食べ物も
決して取るに足りない、小さく、僅かな、役に立たないものではありませんでした。
少年からパンと魚を受け取ったイエスさまは、
感謝の祈りをささげ、それらを人びとに配りました。
最後には、どうなったのでしょうか。僅かなパンと魚によって、誰もが満足しました。
それは、弟子たちの努力の結果でもなければ、
弟子たちが持ち合わせていたお金の力でもありませんでした。
人脈やその土地についての知識によるものでもありません。
この物語が大きく動くきっかけとなったのは、一人の少年の存在でした。
貧しく、力もない、希望も感じられない、社会的にとても小さな存在である、
この少年がイエスさまに差し出したものが、この少年の命だけでなく、
多くの人の命を支えることに用いられました。
このように、少年の持っていた食べ物が分かち合われることによって、
山の草原でこの大きな食事の交わりが始まりました。
この食卓は、現代に生きるわたしたちにとって、とても挑戦的なものです。
というのも、わたしたちが目を留め続け、価値を認め続けるものは、
力があり、頼りになるものだからです。
でも、イエスさまがわたしたちを招く食卓においては、
わたしたちが目を留めないものに、イエスさまは目を留め続けます。
そして、わたしたちが取るに足りないものと考えるものを
イエスさまは大きなものとして扱われます。
言い換えれば、誰もが神に用いられ、神の働きに加わっているということです。
わたしたちは、役に立つか、役に立たないかといった基準で人を見つめません。
誰もが神に用いられる、素敵な人だからです。
それこそ、イエスさまの望むやり方であり、イエスさまの望む交わりの作り方です。