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2024年9月15日 三位一体後第16主日
説教題:わたしたちのマナ、イエス・キリスト
聖書: ヨハネによる福音書 6:26–35、出エジプト記 16:1–5、詩編 23、ガラテヤの信徒への手紙 3:26–28
説教者:稲葉基嗣
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永遠の命に至る食べ物は比喩表現で、イエスさまは最終的には、「わたしが命のパンである」(35節)と自分自身を示す言葉として使っています。わたしたちの身体が食べ物を毎日のように必要とするように、どんなときも、神がわたしたちと共に歩んでくださることを思い起こすために、イエス・キリストがわたしたちには必要です。だからイエスさまは、永遠の命に至る食べ物のために働くことは、神が遣わした者を、つまりイエスさまのことを信頼することだよと伝えました。イエスさまが永遠の命に至る食べ物のために働くようにと、その場にいた人びとに語りかけたのは、なぜなのでしょうか。大勢の人をわずかなパンで養ったイエスさまの姿は、モーセと重なったため、人びとは同じような奇跡を起こしてほしいと願い続けました。でも、イエスさまはその場にいた人びとのそのような要求には応えませんでした。イエスさまが自分自身のことを人びとに示す方法は、モーセのようにすべての人にマナを与え、人びとを養うことではありませんでした。むしろ、イエスさま自身がマナとして与えられ、すべての人を養うのです。マナは、お腹を満たすためだけのものとして与えられたわけではありませんでした。マナは、彼らを神の民へと養うためのものであり、神の愛と憐れみのしるしでした。マナは、旅を通して、この食べ物を食べたイスラエルの民が、神への信頼を育むためのものでした。イエスさまが自らとマナを重ね合わせて紹介していることの意味は明らかです。マナによってイスラエルの民を養い、彼らの旅を最後まで導いたように、神はイエスさまを通して、わたしたちを養い、わたしたちの生涯の旅路を最後まで、天の御国に至るまで導こうとしておられます。神がイスラエルの民に対する愛と憐れみのしるしとしてマナを与えたように、神はイエスさまを通して、愛と憐れみをいつもわたしたちに注いでいます。このように、イエスさまがいつも命を与えるマナのように、わたしたちの生涯の旅路に伴ってくださるというのならば、わたしたちは自分たちの生き方をふたつに分ける必要なんてありません。それは、朽ちる食べ物のために働くことと、永遠の生命に至る食べ物のために働くという、ふたつの分け方です。イエスさまが伴ってくださる、わたしたちの歩む道はすべて、天の御国を目指すための道であり、その旅路を歩むわたしたちの、どんな小さな働きも、どんなに些細な行動も、永遠の生命に至る食べ物のための働きなのです。
By 小山ナザレン教会2024年9月15日 三位一体後第16主日
説教題:わたしたちのマナ、イエス・キリスト
聖書: ヨハネによる福音書 6:26–35、出エジプト記 16:1–5、詩編 23、ガラテヤの信徒への手紙 3:26–28
説教者:稲葉基嗣
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永遠の命に至る食べ物は比喩表現で、イエスさまは最終的には、「わたしが命のパンである」(35節)と自分自身を示す言葉として使っています。わたしたちの身体が食べ物を毎日のように必要とするように、どんなときも、神がわたしたちと共に歩んでくださることを思い起こすために、イエス・キリストがわたしたちには必要です。だからイエスさまは、永遠の命に至る食べ物のために働くことは、神が遣わした者を、つまりイエスさまのことを信頼することだよと伝えました。イエスさまが永遠の命に至る食べ物のために働くようにと、その場にいた人びとに語りかけたのは、なぜなのでしょうか。大勢の人をわずかなパンで養ったイエスさまの姿は、モーセと重なったため、人びとは同じような奇跡を起こしてほしいと願い続けました。でも、イエスさまはその場にいた人びとのそのような要求には応えませんでした。イエスさまが自分自身のことを人びとに示す方法は、モーセのようにすべての人にマナを与え、人びとを養うことではありませんでした。むしろ、イエスさま自身がマナとして与えられ、すべての人を養うのです。マナは、お腹を満たすためだけのものとして与えられたわけではありませんでした。マナは、彼らを神の民へと養うためのものであり、神の愛と憐れみのしるしでした。マナは、旅を通して、この食べ物を食べたイスラエルの民が、神への信頼を育むためのものでした。イエスさまが自らとマナを重ね合わせて紹介していることの意味は明らかです。マナによってイスラエルの民を養い、彼らの旅を最後まで導いたように、神はイエスさまを通して、わたしたちを養い、わたしたちの生涯の旅路を最後まで、天の御国に至るまで導こうとしておられます。神がイスラエルの民に対する愛と憐れみのしるしとしてマナを与えたように、神はイエスさまを通して、愛と憐れみをいつもわたしたちに注いでいます。このように、イエスさまがいつも命を与えるマナのように、わたしたちの生涯の旅路に伴ってくださるというのならば、わたしたちは自分たちの生き方をふたつに分ける必要なんてありません。それは、朽ちる食べ物のために働くことと、永遠の生命に至る食べ物のために働くという、ふたつの分け方です。イエスさまが伴ってくださる、わたしたちの歩む道はすべて、天の御国を目指すための道であり、その旅路を歩むわたしたちの、どんな小さな働きも、どんなに些細な行動も、永遠の生命に至る食べ物のための働きなのです。