小山ナザレン教会

復活の命を分かち合う(稲葉基嗣) – ヨハネ 6:34–40


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2024年9月22日 三位一体後第17主日

説教題:復活の命を分かち合う

聖書: ヨハネによる福音書 6:34–40、イザヤ書 55:1–7、詩編 150、フィリピの信徒への手紙 2:1–5

説教者:稲葉基嗣

 

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人びとが日常的に親しんでいるものを比喩として用いて、自己紹介をしたイエスさまの言葉は、いろいろな連想へとわたしたちを導きます。「いのちのパンである」という言葉を手がかりにして、イエスさまってどういう人だったのだろうかと何度も考え、想像を膨らませます。パンは、イエスさまの言葉を聞いていた人たちにとって、日常的に食べる食べ物であり、毎日、手元にあるべきものでした。ですから、「私はいのちのパンである」という、イエスさまの言葉は、すべての人にイエスさまが必要であることを伝える言葉として聞こえてきます。もちろん、イエスさまは自分のことを比喩的に表現して、あとの解釈は任せたと、完全に言いっぱなしで終わることはしませんでした。「終わりの日に復活させる」、そして、「永遠の命を得る」といった、イエスさまの言葉を理解するための手がかりを残してくれています。イエスさまは、わたしたちに復活のいのちを与えるパンです。それは、すべての人にとっての希望となりうる言葉です。イエスさまは誰のことも見捨てようなどとはしていないからです。わたしたちはもう既に、いのちのパンであるイエスさまを受け取っています。それは、とても不思議なことです。神が死者をよみがえらせ、いのちを与えるそのタイミングで、神がいのちのパンを与える、といった言い方だってできたはずです。でも、そのような言い回しをイエスさまがしなかったのは、復活のいのちをわたしたちに与えるいのちのパンであるイエスさまが、既にわたしたちのもとに来て、いのちを注ぎ、わたしたちに復活のいのちを分かち合ってくださっているからです。すべてのものに命の息を吹きかけ、その命を豊かに用いようとしておられる神が、今を生きるわたしたちの命をより豊かに生かそうとしておられます。いのちのパンであるイエスさまがわたしたちに与えられたのは、いのちを傷つけ合う世界のあり方をこのまま永遠に続けるためではありません。この世界が、そこで生きるわたしたちが、奪い合い、傷つけ合い、憎しみ合い、自分よりも弱い人を踏みにじり、命を蔑ろにすることをやめて、お互いのいのちを尊重し、いのちを回復する道を歩んでいくためです。そのために、いのちのパンであるイエスさまはわたしたちのもとに来てくださいました。イエスさまから与えられているこの復活の希望にあふれる命を少しずつこの世界に、みなさんが分かち合っていくことができますように。

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