小山ナザレン教会

神の時の訪れを待ち望みながら(稲葉基嗣) – ヨハネ 7:1–9


Listen Later

2024年10月20日 三位一体後第21主日

説教題:神の時の訪れを待ち望みながら

聖書: ヨハネによる福音書 7:1–9、コヘレトの言葉 11:1–6、詩編 133、コロサイの信徒への手紙 3:1–4

説教者:稲葉基嗣 

-----

仮庵祭は、新年を迎えた月の15日目から始まり、1週間続くものでした。秋の収穫を喜び、神によって導かれ、養われた荒野での旅を思い起こす祭でした。毎晩、彼らは手にたいまつをもって踊り、音楽を奏で、歌い、楽しく過ごしました。仮庵祭は、その当時のユダヤ人たちにとって、大切なお祭りのひとつだったため、各地からエルサレムにやって来る人たちもたくさんいました。そのため、イエスさまは兄弟たちからエルサレムへ行くことを勧められました。イエスさまの普段の活動を行うのに、絶好の時だと、彼らには思えたのでしょう。イエスさまは、「私の時はまだ来ていない」(6節)と言って、その提案を断ります。この時のイエスさまの心にあったのは、自分や兄弟たちにとって良いと思えるタイミングではなく、神がふさわしいと考えるタイミングでした。ヨハネによる福音書の著者は、イエスさまについての物語をこれまで綴る中で、そのタイミングがいつであるのかについて、何度かほのめかしてきました。ヨハネ福音書の著者は、イエスさまの生涯を振り返る時、神の小羊であるイエスさま(1:29参照)にとって、エルサレムへ行くのにふさわしい時があったことを知っています。それは、仮庵祭ではなく、イスラエルの民の解放と自由を祝う過越祭でした。過越祭が始まる前に、お祭りの準備のために小羊が屠られました。解放と自由を告げる、過越祭の準備として小羊が屠られたように、すべての人に罪の赦しと罪の束縛からの解放を与えるために、神の小羊であるイエスさまが十字架にかかる必要がありました。神の計画において、過越祭の時期は、イエスさまを通して明らかにされる愛と罪の赦しを告げるのに、ふさわしい時期でした。そのため、神の時があることを強く自覚して、イエスさまは仮庵祭の時期にエルサレムへ行くという、兄弟たちからの提案を断りました。イエスさま以外は、誰も神の時を気にする必要などないのでしょうか。もちろん、そのようなわけではありません。神のタイミングを拒否して、自分の都合の良い時、自分だけが得することができるタイミングを追い求めてしまいがちな、この世界で生きるすべての人びとにイエスさまは呼びかけて、一緒に旅をしようと招いています。神の愛や赦しがわたしたちの人生に訪れ、広がっていく。争いにあふれる日常や社会が、和解と平和と共に生きる喜びで包まれていく。そんな神の時の訪れを待ち望みながら歩む旅です。そんな生き方がわたしたちの前にはいつも開かれています。

...more
View all episodesView all episodes
Download on the App Store

小山ナザレン教会By 小山ナザレン教会