2024年7月14日 三位一体後第7主日
説教題:その怒りはどこへ行くの?
聖書:ヨナ書 4:1-5、マタイによる福音書 6:13、ヤコブの手紙 1:19-21、詩編 95
説教者:稲葉基嗣
-----
怒りは、人間が抱く基本的な感情のひとつです。
個人差はあれど、年齢を問わず、誰もが怒りを抱くでしょうが、
できれば怒りは抱きたくないと、多くの人たちが考えていることでしょう。
怒りによって、あまり喜ばしくない結果が
自分や周囲にもたらされることは簡単に想像できるからです。
でもその一方で、怒りはわたしたちにとって、どうしても必要な感情です。
大切なものを傷つけられて怒りを覚えるからこそ、わたしたちは
自分や周りの人たちにとって、何が大切なのかを知ることができます。
#KuToo(ハッシュタグ・クートゥ)のように、怒りは良い火種となり得ます。
けれども、怒りによって分断や差別や争いが広がる例だってあります。
この物語の中で神に向かって感情を露わにしているヨナの怒りに、
わたしたちはどのように向き合えば良いのでしょうか。
神はヨナと語り合い、ヨナに問いかけることを選びました。
「あなたは怒っているが、それは正しいことか」(4:4)
ヨナが抱いているその怒りを一度自分で見つめ直すようにと、神は促しました。
ヨナの怒りが正しいものではないことは、明らかです。
どれほど神から遠く離れた歩みをしていたとしても、
すべての人が、神に愛されている存在であると、わたしたちは信じているからです。
そもそも、正しい怒りなどあり得るのでしょうか。
たしかに、人を突き動かす良い火種になる怒りが現実にはありますし、
この世界の不正義や不平等、争いや諍いに対して、
正義や平等、平和や和解を求めるからこそ、怒りを抱くことだってあります。
でも、それと同時に、わたしたちは怒りの用い方を誤り、人を傷つけてしまいます。
だからこそ、わたしたちは、心に沸き起こるこの怒りがどうしたら
本当に正しいものであり続けるのか、常に問いかけ続けなければなりません。
神は、その怒りは正しいのか、とわたしたちに問いかけています。
ヨナは、ヨナ書の中で反面教師のように描かれています。
けれども、あるひとつの点において、ヨナは模範的な信仰の姿勢を示しています。
それは、自分が抱いた怒りの矛先をニネベの人たちではなく、神に向けたことです。
神はその怒りをわたしたちが望む以上に、正しく取り扱ってくださるからです。
みなさんの抱く怒りが正しい怒りならば、できる限り平和な道を歩んで、
この社会にその怒りを届けることができるように。
何よりも、神がわたしたちの怒りを受け止めてくださることをどうか忘れずに、
日々の信仰の旅路をみなさんが歩んで行くことができますように。