小山ナザレン教会

神は問いかける(稲葉基嗣) – ヨナ書 4:1−11


Listen Later

2024年7月21日 三位一体後第8主日

説教題:神は問いかける

聖書:ヨナ書 4:1−11, マルコによる福音書 10:35–45, ローマの信徒への手紙 11:33−36, 詩編 116

説教者:稲葉基嗣



-----

答えがわかっていることって、とても安心すると思います。

自分は間違えてはいないという保証になるからです。

でも、わたしたちの日常は、答えがわからないことの方がたくさんあります。

だからわたしたちは、日常的に、答えがわからず、右往左往します。

キリスト教会は、いつも聖書に記されている言葉に耳を傾けます。

けれども、現代に生きるわたしたちにとって、

聖書はとてもザラザラとした、わかりにくいものです。

一見、ヨナ書はわかりやすい書物ですが、その最後に記されている神の言葉は、

ヨナ書がもともと書かれたヘブライ語で読んでみると、実は謎が多く、ざらついて、

一度立ち止まって考えなければいけない言葉であることに気付かされます。

日本語訳の聖書は「それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか」と、最後の神の言葉を疑問文として訳しています。

けれども、この文は、まったく反対の意味で訳せる可能性を持っています。

「私はこの大いなる都ニネベを惜しまない」という、否定文としても読めます。

もしもこのように読む方が正しいのだとしたら、

最後の最後で、神が手のひらを返しているようにも見えます。

でも、実際のところ、否定文として読むことは出来なかったと思います。

書物は誰かが代表して朗読し、たくさんの人がその言葉に耳を傾けたからです。

神の言葉が否定文として響いてヨナ書が終わるとき、「物語の流れから考えれば、

否定文で終わるのはおかしい」と、誰もが疑問を抱いたと思います。

そしてある瞬間、誰かが気づきます。

「これって、否定文ではなく、疑問文として読むべきところなんじゃないの?」

そんな対話を生み出し、じっくり考えさえ、適切な読み方を選ばせるように

ヨナ書が記されているならば、否定文にも、疑問文とも読めるこの終わり方は、

とても計算された終わり方のように感じます。

何よりも、最後には「ニネベの人びとを憐れまない」という言葉を

読者たちの対話によって、最後には否定させるのですから。

ヨナ書の最後に記された神の言葉からもわかるように、

神はわかりやすい答えを示すことばかりを好みません。

むしろ、聖書が証言し、わたしたちが信じる神は、わたしたちに問いかける方です。

わたしたちに問いかけ続ける神の姿は、何が正しいのかわからない、

不確かな社会の中を歩むわたしたちにとって、とても大きな励ましといえます。

神の問いかけに喜んで耳を傾けて、

これからも信仰の旅路を歩み続けることができますように。

...more
View all episodesView all episodes
Download on the App Store

小山ナザレン教会By 小山ナザレン教会