小山ナザレン教会

主イエスが水を用いなかった理由(稲葉基嗣) – ヨハネ 5:1–9a


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2024年7月28日 三位一体後第9主日

説教題:主イエスが水を用いなかった理由

聖書:ヨハネによる福音書 5:1-9a、列王記 下 5:1−14、コリントの信徒への手紙 二 1:20–22、詩編 67

説教者:稲葉基嗣


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ベトザタの池は、身体を儀式的に清めるための沐浴に用いられていました。

身体に何らかの困難を抱えている多くの人たちがその通路に横たわっていました。

この池の水が動いたときに水の中に入れば、

身体が癒やされる可能性があると彼らは信じていたようです。

そんな彼らのうちの一人である、38年もの間、病で苦しんでいる人に

にイエスさまは「良くなりたいか」と尋ねました。

この人は癒されたいから、ここにずっと居て、水が動くのを待っていたはずです。

でも、この人は「はい」と素直に答えませんでした。

自分の病気が完全に癒される未来を想像することなどできませんでした。

これまで誰も助けてくれなかったからです。

周りの人たちは、周りを押しのけ、自分の癒やしだけを求めて行動していました。

だから、良いタイミングで、誰よりも先に水の中に入ることも出来ませんでした。

そのような、この病気の人が置かれている状況は、

現代に生きるわたしたちが置かれている状況に似ているように思えてきます。

誰かの助けを最後まで期待することはできず、

自分の能力と責任の中で頑張らなければいけない。

何とかしてチャンスや勝利や目に見える成果を手にしなければいけない。

そんな世界の中でこの人が生きているように見えますし、

何よりも、わたしたちだって、そんな価値観を持つ社会の中で生きています。

きっとこの人はイエスさまが自分の願いを叶えてくれることを願ったことでしょう。

でも、イエスさまはこの場面において、

ヨハネ福音書の中でとても象徴的な意味を持つ水を決して用いず、

ただこの病人に向かって「起きて、床を担いで歩きなさい」と語りかけました。

それは、この人が望んでいた形での癒やしではありませんでした。

イエスさまは、この人が誰よりも早く水の中に入ることを助けませんでした。

それはまるで、競争の中で人が救われることを拒否しているかのようです。

そのような価値観の中で救いを手にするのをひたすら待ち続けている状態から

抜け出して、新しく歩み始めるようにと、招いているかのようです。

それでは、わたしたちが目指す方向とは一体どこにあるのでしょうか。

イエスさまは、それは天の御国だといつも指し示しておられます。

それは誰かを押しのけて自分の利益を掴むことを励まされる世界ではありません。

立場や能力や性別や生まれなど関係なしに、誰もが手を取り合える世界です。

イエスさまはそんな世界の実現を目指して、

わたしたちに起き上がりなさい、歩き出しなさいと声を掛けておられます。

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