2024年12月15日 待降節第3主日
説教題:沈黙に訪れる神
聖書: ルカによる福音書 1:57–80、イザヤ書 42:5–9、詩編 150、コリントの信徒への手紙 一 1:26–31
説教者:稲葉基嗣
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人びとが子どもの誕生をエリサベトと一緒に喜ぶその様子をルカは、
「主が彼女を大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」(58節)と書いています。
新約聖書の時代のユダヤ文化において、結婚した女性が子どもを産めないことは、
その女性にとって大きな恥であり、危機でした。
長年子どもを与えられなかったエリサベトはきっと、
自分の置かれている立場について、完全に諦めきっていたと思います。
希望のない状況の中、声を上げられず、沈黙し、諦め、心が麻痺していきました。
そのようなエリサベトが子どもを産んだということは、ユダヤ文化においては、
まさに彼女の社会的な立場や尊厳の回復に繋がることでした。
だから、彼女の出産は神からの慈しみ(憐れみ)として、周囲から理解されました。
またそれは、彼女の長い沈黙に終わりが告げられたことも意味しました。
周囲がエリサベトのことで喜び、騒ぎ立つ中で、
エリサベトの夫、ザカリアだけ声を上げず、黙っていました。
神殿で天使と出会い、エリサベトが子を身ごもるという話を聞いたとき、
その言葉を信じられなかった彼は、天使によって、言葉を奪われていました。
ザカリアの沈黙は、子どもの名前を人びとが話し合っていたときに終わりました。
この時、両親の意思が反映されずに子どもの名が決まりそうになりました。
それはまるで、この時、周囲の人たちとうまくコミュニケーションを
取ることができなかった父親のザカリアが無視されているようにも、
また、母親のエリサベトが軽んじられているようにも感じてしまいます。
それはザカリアを通して与えられた、神の声も沈黙させられるような出来事でした。
そんな時にエリサベトは声を上げ、この子どもの名前はヨハネと伝えました。
それは偶然の一致だったのか、それとも時間をかけて夫のザカリアから
彼女がこの名前を聞いていたのかはわかりません。
彼女の提案を聞いた人たちが、本当にその名前で良いのかを尋ねた時に、
ザカリアは文字を書いて、人びとに天使の告げたヨハネという名前を伝えました。
その時、彼の沈黙は終わりを告げ、彼は喜び、神を賛美し始めました。
沈黙の中にあったザカリアやエリサベトに、神の憐れみは確かに注がれ、
最終的に彼らの沈黙は打ち破られました。
このようなザカリアの物語や讃美歌がクリスマスの物語の直前に置かれています。
それは、イエス・キリストこそが、ザカリアが指し示した救い主メシアであり、
わたしたちが沈黙するところに光を携えて訪れてくださる方だからです。
主イエスこそ、わたしたちの沈黙を打ち破り、喜びの声で溢れさせてくださる、
わたしたちの人生の、そしてこの世界の光です。