小山ナザレン教会

主イエスが対立の原因なのだろうか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 7:37–53


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2024年11月24日 三位一体後第26主日

説教題:主イエスが対立の原因なのだろうか?

聖書: ヨハネによる福音書 7:37–53、ゼカリヤ書 14:8–9、詩編 42、フィリピの信徒への手紙 4:4–9

説教者:稲葉基嗣

 

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荒野での旅を神が最後まで支え、導き、養い続けてくださったことを記念する、仮庵祭の最終日に、イエスさまは人びとの前で叫びました。  「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。」(37–38節)仮庵祭の期間中、水は、特別な意味を持っていました。祭の期間中、祭司がシロアムの池から水を汲んで、神殿に運んで来ました。その水は、祭壇のそばにある器の中に注がれました。この儀式は、預言者の言葉を人びとに思い起こさせました。それは、神殿から水が湧き出て、世界中を潤すイメージです(ゼカリヤ14:8)。イエスさまの言葉によれば、神殿からではなく、イエスさまから命を与える生ける水は湧き出ます。そして、イエスさまから水を与えられるだけではなく、イエスさまを信じる人びと自身も、生ける水が湧き出る存在となります。ある人たちは、このような言葉を語るイエスさまを預言者として受け止めました。ある人たちは、この人こそメシアなのだと騒ぎ出しました。けれども、イエスさまをよく知る人たちにとって、それは馬鹿らしい話でした。このように、イエスさまの評価を巡って、人びとは議論し、騒ぎました。この時の様子について、ヨハネは、人びとの間で対立が生じたと書いています。イエスさまは、彼らの対立が表面化することに、きっかけを与えたに過ぎません。イエスさま以外の人が「あの人はメシアだ」と言われても、議論は起こったでしょう。対立も、分裂も生じたことでしょう。それは、意見の多様さとも言えるので、そこまで悪いことではないかもしれません。けれども、対立や分裂が生じるとき、相手の存在や人格を否定するならば、その対立や分裂は、対話を放棄し、溝を深めるものへと変わってしまうでしょう。イエスさまを捕らえようとして、下役たちを遣わした、祭司長たちやファリサイ派の人たちの反応は、まさにそのようなものでした。彼らは下役たちを小馬鹿にし、嘲り、彼らの言葉に真剣に耳を傾けようとしません。しまいには、「律法を知らないこの群衆は、呪われている」と言って、イエスさまに好意的に反応した人たちを過剰に罵っています。人の命を活かすような、命の水は彼らからは広がっていきません。むしろ、人を嘲り、貶めるような、笑い声が広がっています。わたしたちの生きる社会やこの世界ではどうでしょうか。わたしたちが生きる社会やこの世界にもイエスさまの与える生ける水が必要です。神は、イエスさまを信じ、イエスさまに従おうとする人たちから、生ける水を湧き出してくださり、この世界に命をもたらそうとしています。

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