2024年4月14日 復活節第3主日
説教題:傷ついた主イエスが間に立っている
聖書:ルカによる福音書 24:36−53、イザヤ書 2:1−5、ガラテヤの信徒への手紙 4:6−7、詩編 95
説教者:稲葉基嗣
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弟子たちの多くは、イエスさまが復活したことを受け止められずにいました。
そんな彼らのもとに、復活したイエスさまは現れ、弟子たちの真ん中に立ち、
弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と挨拶をします。
突然自分たちの前に現れたイエスさまを見た弟子たちは、
喜ぶことなどできず、むしろ、怖くなり、取り乱しました。
イエスさまは、弟子たちが恐れる必要がないことを伝えつつ、
自分がたしかに復活したことを受け止めてもらおうとしています。
イエスさまは、自分の手と足を見せ、身体に触れるようにと弟子たちに伝えます。
そして、食事をとる姿を見せて、あの頃と何も変わらない自分の姿を見せました。
そのようにして、イエスさまは弟子たちの疑う心や不安や恐れを抱く心を落ち着け、
自分がたしかに復活したという事実を知らせました。
このとき、「平和があるように」と弟子たちに告げた復活したとイエスさまが、
手と足を弟子たちに見せたことは、とても象徴的な意味をもっています。
手と足は、イエスさまが十字架にかけられたときに、釘を刺された場所でした。
手と足に注意を向け、触れるようにと、イエスさまが伝えているため、
イエスさまの手や足に傷が残っていたと、ルカが考えていたのは明らかでしょう。
復活したイエスさまは、神によっていのちを与えられ、よみがえりました。
そうであるならば、手足の傷だって癒やされても良かったはずです。
それなのに、イエスさまは傷ついたままで復活しました。
その傷ついた手足を見せることを通して、十字架の死に至るまでの出来事と、
イエスさまが復活した出来事の両方を伝えるためだったのでしょう。
復活したイエスさまは、傷ついたその両手と両足を隠すことなく、
傷を抱えながら、弟子たちに向き合いました。
過去のことは綺麗さっぱり忘れて、傷ついた経験を完全に無視して、
さぁ、平和を築いていこうと、イエスさまは伝えているわけではありません。
むしろ、傷を抱えながら、弟子たちと向き合い、イエスさまは平和を告げました。
そのような、イエスさまの姿そのものが、弟子たちに対する罪の赦しの宣言です。
傷を乗り越えながら、弟子たちの間に、
弟子たちとイエスさまのコミュニティの中に、平和を築いていくことが出来る。
イエスさまはそんな願いと確信を込めて、
「あなたがたに平和があるように」と、弟子たちに語りかけたのでしょう。
このようなイエスさまの姿は、わたしたちにとって大きな希望です。
誰もがそれぞれにいろいろな傷を抱えていても、その傷を乗り越えながら、
わたしたちは平和を築いていけるという希望を伝えているからです。