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2024年4月21日 復活節第4主日
説教題:キリストの遠回り
聖書:ヨハネによる福音書 4:1−15、イザヤ書 49:8−13、エフェソの信徒への手紙 4:6、詩編 42
説教者:稲葉基嗣
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ガリラヤへ向かって出発する前、イエスさまは
洗礼者ヨハネが活動していた、アイノンという場所にいました。
アイノンから寄り道せずにガリラヤへ行こうとするならば、北に向かうだけです。
でも、ガリラヤへ向かうイエスさまの旅について、
ヨハネは「サマリアを通らねばならなかった」(4節)と、記しています。
アイノンからガリラヤへ移動するために、サマリアを通る必要はないため、
目的地であるガリラヤへ行く上で、サマリヤを通るのは遠回りでした。
ユダヤ人とサマリア人の間には確執があり、お互いに拒絶し合っていました。
そのため、このときのイエスさまの旅程は、通常サマリアを避けて旅をした
ユダヤ人たちの文化的常識に真っ向から逆らうものでした。
それは、イエスさまがひとりのサマリア人女性と出会うための遠回りでした。
この女性が、人びとが井戸に集まる時間帯を避けて井戸にやって来たことは、
彼女が何らかの問題を抱えていることをほのめかしています。
イエスさまとの出会いは、彼女にとって驚きの出会いでした。
当時のユダヤ人やサマリア人にとって、
公共の場で、男性が女性に話しかけることは好まれていませんでした。
また、ユダヤ人であるイエスさまがサマリア人女性に語りかけてきました。
「水を飲ませてください」という簡単な一言ですが、
イエスさまが彼女に語りかけたこの言葉は、文化や慣習を打ち破り、
イエスさまが彼女と出会った証しでした。
イエスさまとの出会いを通して、神が決して渇くことのない、
いのちの水を与えてくださることを彼女は受け止めるようになりました。
現代に生きるわたしたちにとって、遠回りを選んで、文化的な壁を乗り越えて
サマリアの女性と出会ったイエスさまの姿は、とても挑戦的な姿に映ります。
わたしたちの生きる現代の社会において、効率を求めるほうがはるかに楽ですし、
そちらの方が多くの人が望んでいることのように思えるからです。
でも、イエスさまにとってサマリアの女性がそうであったように、遠回りをしないと
出会えない人がいます。愛や憐れみを届けられない人たちがいます。
教会の交わりは、ある意味で遠回りを大切にしている集まりです。
自分たちがするべき様々なことを一度脇に置いて、神の前に集まり、
神から生ける水を得る経験を与えられるからです。
神から与えられる水は、やがて水が湧き出る泉となります。
それは、単に、わたしたちが渇かなくなるためだけのものではありません。
むしろそれは、わたしたちが遠回りをして、誰かの渇きを癒やすためのものです。
By 小山ナザレン教会2024年4月21日 復活節第4主日
説教題:キリストの遠回り
聖書:ヨハネによる福音書 4:1−15、イザヤ書 49:8−13、エフェソの信徒への手紙 4:6、詩編 42
説教者:稲葉基嗣
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ガリラヤへ向かって出発する前、イエスさまは
洗礼者ヨハネが活動していた、アイノンという場所にいました。
アイノンから寄り道せずにガリラヤへ行こうとするならば、北に向かうだけです。
でも、ガリラヤへ向かうイエスさまの旅について、
ヨハネは「サマリアを通らねばならなかった」(4節)と、記しています。
アイノンからガリラヤへ移動するために、サマリアを通る必要はないため、
目的地であるガリラヤへ行く上で、サマリヤを通るのは遠回りでした。
ユダヤ人とサマリア人の間には確執があり、お互いに拒絶し合っていました。
そのため、このときのイエスさまの旅程は、通常サマリアを避けて旅をした
ユダヤ人たちの文化的常識に真っ向から逆らうものでした。
それは、イエスさまがひとりのサマリア人女性と出会うための遠回りでした。
この女性が、人びとが井戸に集まる時間帯を避けて井戸にやって来たことは、
彼女が何らかの問題を抱えていることをほのめかしています。
イエスさまとの出会いは、彼女にとって驚きの出会いでした。
当時のユダヤ人やサマリア人にとって、
公共の場で、男性が女性に話しかけることは好まれていませんでした。
また、ユダヤ人であるイエスさまがサマリア人女性に語りかけてきました。
「水を飲ませてください」という簡単な一言ですが、
イエスさまが彼女に語りかけたこの言葉は、文化や慣習を打ち破り、
イエスさまが彼女と出会った証しでした。
イエスさまとの出会いを通して、神が決して渇くことのない、
いのちの水を与えてくださることを彼女は受け止めるようになりました。
現代に生きるわたしたちにとって、遠回りを選んで、文化的な壁を乗り越えて
サマリアの女性と出会ったイエスさまの姿は、とても挑戦的な姿に映ります。
わたしたちの生きる現代の社会において、効率を求めるほうがはるかに楽ですし、
そちらの方が多くの人が望んでいることのように思えるからです。
でも、イエスさまにとってサマリアの女性がそうであったように、遠回りをしないと
出会えない人がいます。愛や憐れみを届けられない人たちがいます。
教会の交わりは、ある意味で遠回りを大切にしている集まりです。
自分たちがするべき様々なことを一度脇に置いて、神の前に集まり、
神から生ける水を得る経験を与えられるからです。
神から与えられる水は、やがて水が湧き出る泉となります。
それは、単に、わたしたちが渇かなくなるためだけのものではありません。
むしろそれは、わたしたちが遠回りをして、誰かの渇きを癒やすためのものです。