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2024年4月28日 復活節第5主日
説教題:どこで礼拝をするべきですか?
聖書:ヨハネによる福音書 4:13−26、エゼキエル書 47:1−12、ペトロの手紙 一 2:9–10、詩編 100
説教者:稲葉基嗣
-----
なぜイエスさまは、急にサマリアの女性に夫の話をしようとしたのでしょうか。
それこそが、彼女の抱えていた、心の渇きだったからでしょう。
彼女には5人の夫がいましたが、今はその5人とも一緒に暮らしていません。
また、今は別の男性と暮らしていました。
当時の文化において、女性の側から離婚するような権利はありませんでした。
ですから、かつて彼女の夫であった男性が5人いるという彼女のこの状況は、
彼女の道徳的問題や彼女の罪を指し示しているのではありません。
むしろ、文化的に自然な結論は、彼女が夫を何度も亡くしていることです。
古代の社会において女性が夫を持たず、ひとりで生活することは無理な話でした。
ですから、夫を何度も失った彼女の置かれた環境は悲しみそのものでした。
共に生きる家族が亡くなったり、自分のもとを去っていくたびに、
心が引き裂かれる思いにもなりました。
そのような心の渇きを彼女自身が抱えていることを伝えるために、
イエスさまは急に話を変えて、夫を呼んでくるようにと彼女に伝えたのでしょう。
目の前にいるこの人が、自分の心の渇きが何であるかを見破り、
その渇きを癒すために生ける水を与えることが出来ることを知り、
彼女はイエスさまのことを神に選ばれた預言者として受け止めるようになります。
でも、考えてみると、おかしなことに彼女は気づきました。
彼女の心の渇きを癒すという、生ける水を与える神と
サマリア人である自分は一体どこで出会えるのでしょうか?
彼女の目の前にいるのはユダヤ人であるイエスさまです。
ユダヤ人の理屈で考えるならば、神と出会える場所は、当然、エルサレムです。
サマリア人である彼女がエルサレムを訪れて、礼拝しても良いのでしょうか。
そもそもユダヤ人とサマリア人は同じ神を信じているのですから、
サマリア人が聖なる場所と考える、ゲリジム山でも良いはずです。
そんな疑問を抱いた彼女は、イエスさまに正直に自分の思いを打ち明けました。
この女性の言葉に対するイエスさまの答えは、
ユダヤ人にとっても、サマリア人にとっても、驚くべきものでした。
神を礼拝する場所は、ゲリジム山でも、エルサレムでもない、というのですから。
イエスさまは特定の場所を示しませんでした。
霊と真実をもって、神を礼拝するべき時が来る。
今がその時であるというのが、イエスさまの確信でした。
わたしたちが神を礼拝するための条件はありません。
誰もが、今のありのままの姿で、神のもとに呼ばれています。
By 小山ナザレン教会2024年4月28日 復活節第5主日
説教題:どこで礼拝をするべきですか?
聖書:ヨハネによる福音書 4:13−26、エゼキエル書 47:1−12、ペトロの手紙 一 2:9–10、詩編 100
説教者:稲葉基嗣
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なぜイエスさまは、急にサマリアの女性に夫の話をしようとしたのでしょうか。
それこそが、彼女の抱えていた、心の渇きだったからでしょう。
彼女には5人の夫がいましたが、今はその5人とも一緒に暮らしていません。
また、今は別の男性と暮らしていました。
当時の文化において、女性の側から離婚するような権利はありませんでした。
ですから、かつて彼女の夫であった男性が5人いるという彼女のこの状況は、
彼女の道徳的問題や彼女の罪を指し示しているのではありません。
むしろ、文化的に自然な結論は、彼女が夫を何度も亡くしていることです。
古代の社会において女性が夫を持たず、ひとりで生活することは無理な話でした。
ですから、夫を何度も失った彼女の置かれた環境は悲しみそのものでした。
共に生きる家族が亡くなったり、自分のもとを去っていくたびに、
心が引き裂かれる思いにもなりました。
そのような心の渇きを彼女自身が抱えていることを伝えるために、
イエスさまは急に話を変えて、夫を呼んでくるようにと彼女に伝えたのでしょう。
目の前にいるこの人が、自分の心の渇きが何であるかを見破り、
その渇きを癒すために生ける水を与えることが出来ることを知り、
彼女はイエスさまのことを神に選ばれた預言者として受け止めるようになります。
でも、考えてみると、おかしなことに彼女は気づきました。
彼女の心の渇きを癒すという、生ける水を与える神と
サマリア人である自分は一体どこで出会えるのでしょうか?
彼女の目の前にいるのはユダヤ人であるイエスさまです。
ユダヤ人の理屈で考えるならば、神と出会える場所は、当然、エルサレムです。
サマリア人である彼女がエルサレムを訪れて、礼拝しても良いのでしょうか。
そもそもユダヤ人とサマリア人は同じ神を信じているのですから、
サマリア人が聖なる場所と考える、ゲリジム山でも良いはずです。
そんな疑問を抱いた彼女は、イエスさまに正直に自分の思いを打ち明けました。
この女性の言葉に対するイエスさまの答えは、
ユダヤ人にとっても、サマリア人にとっても、驚くべきものでした。
神を礼拝する場所は、ゲリジム山でも、エルサレムでもない、というのですから。
イエスさまは特定の場所を示しませんでした。
霊と真実をもって、神を礼拝するべき時が来る。
今がその時であるというのが、イエスさまの確信でした。
わたしたちが神を礼拝するための条件はありません。
誰もが、今のありのままの姿で、神のもとに呼ばれています。