小山ナザレン教会

教会とは何か(石田学) – ローマ 14:1–12


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2025年1月26日 公現後第3主日

説教題:教会とは何か

聖書: ローマの信徒への手紙 14:1–12、イザヤ書 56:7、詩編 124、ルカによる福音書 21:25–28

説教者:石田学

 

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人間関係は、いつでもどこでも、どんな共同体でもむずかしいものです。     性格の違い、意見や考えの違い、ものごとの手順の違い、自己主張の度合い・・。 しかし最大の衝突原因は、「正しさ」の対立ではないでしょうか。誰もが自分の正しさを持っていて、それで他の人を評価し、時に裁きます。逃れることのできない共同体なら、対立や不愉快さも我慢するでしょう。国家や地域、職場や学校などの共同体は、よほどでない限り逃げられません。でも、趣味や楽しみ、ボランティアなどの自主的な共同体は違います。嫌になればやめてしまったり、嫌な相手をやめさせたりもするでしょう。教会はどうでしょうか、教会はそのような任意の共同体なのでしょうか。教会を離れることはその人の考え、気持ち次第で自由にできることです。だが、教会はその程度のサークルかと問われたら、断じて違うはずです。教会はキリストによりあがなわれ、神の民とされた者の群れだからです。この根源的価値を共有するが、聖人の群れではなく人間の共同体でもあります。考えや意見が違い、性格も人格も異なる、罪びとである人々の集いです。自分の信じる正しさを掲げて、時として互いに裁き、見下す人々の集会です。それはすべての教会の現実で、ローマ教会も例外ではありませんでした。ある人々が「信仰の弱い人」と見なす人たちを見下し裁いていたからです。ローマで「信仰の弱い人」と見下されていた人々には事情がありました。異教の神殿で犠牲に捧げられた払い下げ肉は汚れていると考え、肉を食べると穢れてしまうことを恐れて信仰のゆえに肉食を避けたのでした。何かを食べたら穢れるなど愚かしいと考える人々は彼らを見下していました。逆に、肉を食べない信念の人は食べる人を無節操だと裁いたのでした。どちらもが自分の正しさで相手を量り、互いに相手を非難し攻撃していました。パウロはそのような人々に「信仰の弱い人を受け入れなさい」と説きます。信仰の強い人に寛容を求めているかのようですが、そうではありません。何を食べるか食べないかを信仰と結び付ける誤りを否定したのでした。信仰は自分を高めたり他の人を裁くためのものではないからです。食べるのも主のため、食べないのも主のため、主のためという目的は同じ。信仰者は皆、キリストをとおして神に受け入れられています。その事実の前には、他のどのような違いも価値観も無に等しいのです。教会はその事実を共に喜び祝い、共に主に感謝し神をたたえる共同体です。わたしたちが共に捧げる礼拝は、その事実を共に表し共に体験する行為です。教会とは何か、第一の定義は「共に礼拝を捧げる神の民の群れ」。礼拝を共に祝う限り、わたしたちは互いを喜び受け入れ合う神の民の群れです。

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