小山ナザレン教会

なぜ主イエスは地面にものを書いたのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 8:1–11


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2025年1月19日 公現後第2主日

説教題:なぜ主イエスは地面にものを書いたのか?

聖書: ヨハネによる福音書 8:1–11、列王記 上 3:16-28、詩編 42、ローマの信徒への手紙 3:21-26

説教者:稲葉基嗣

 

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ヨハネが描く物語を想像してみると、何かおかしい事に気づかないでしょうか。ひとりの女性が姦淫の罪を犯したその現場で捕らえられて、イエスさまのもとに連れて来られました。現場を抑えられているのに、相手の男性がいません。それは不自然さと同時に、女性の立場の危うさを感じさせます。彼女を連れてきた人たちは、イエスさまの前で彼女の罪を訴え、彼女をどのように裁いたら良いのかについて、イエスさまに問いかけました。この女性にどのように律法を適用するべきかを悩んでいたわけではありません。それは、イエスさまに問いかけることによって、彼らはイエスさまのことを試して、イエスさまを訴える口実を手にするためでした。ということは、彼らの目的は、彼女を裁くことそのものにはありませんでした。ただ、彼女の犯した罪を利用して、イエスさまを罠にかけたい。イエスさまに尋ねてきた彼らにとって、彼女はイエスさまを貶めるための道具でしかありませんでした。イエスさまは、このような彼らの言葉に何も答えず、地面に何かを書き始めました。わたしにはこのイエスさまの姿は、女性を利用して、イエスさまを罠にはめようとする人びとの姿勢に対する抗議のように見えます。しつこく問い続け、イエスさまを罠にかけることを諦めない彼らに「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)とイエスさまは告げることによって、この問題に自分を巻き込むことをやめさせます。石を投げるかどうかという問題は、訴える者と彼女の関係に切り替わります。自分には罪がないと言う人も、罪があると認める人も、一度石を手にとって、自分自身の心の内や普段の歩みを見つめ直さなければいけませんでした。また、イエスさまを訴えるために、彼女をただ利用している事実と向き合わなければならなかったでしょう。彼女にとって大きな問題であったのは、自分が道具とされていることでした。誰も彼女の罪をきちんと見つめ、彼女と向き合ってくれる人はいませんでした。だからこそ、きちんと自分と向き合い、語りかけてくれる、イエスさまの言葉に彼女はどれほど慰めを受けたでしょうか。人を道具のように扱い、時には利用し、時には石を投げつけることは、わたしたちが生きる社会の中で何度も何度も起こっています。だからこそイエスさまはわたしたちのもとに来て、わたしたちと共に生きることを選んでくださいました。

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