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2025年11月16日 三位一体後第22主日
説教題:主イエスがこだわったこと
聖書: ヨハネによる福音書 10:31–42、ホセア書 11:1–9、詩編 82、エフェソの信徒への手紙 4:32–5:2
説教者:稲葉基嗣
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きょう開いた福音書の物語は、とても物騒な始まり方をします。ユダヤの宗教指導者たちは、イエスさまを石打ちにしようとしています。ユダヤの宗教指導者たちがこのような態度を取っているのは、イエスさまが神への冒涜とも受け取れるようなことを発言したからでした。「私と父とは一つである。」(30節)自分を神と同一視しているように聞こえるこの発言は、神を冒涜する、とても問題のある発言としてユダヤの宗教指導者たちには聞こえました。ただ、「私と父とは一つである」と発言をしたイエスさま自身は、自分と神とを完全に同一視することを伝えようとしたわけではなかったでしょう。自分と神はひとつであるというイエスさまのこの発言の趣旨は、神の願いを自らの願いとして受け止めて、行動へと移していくということです。誤解されたことは明らかでしたが、イエスさまはその発言を取り下げません。イエスさまはむしろ、石を手に握るユダヤ人たちに、旧約聖書の言葉を思い起こさせ、自分の語ることの正当性を伝えようとしました。その際、イエスさまは「あなたがたは神々である」という詩編の言葉を用いました。詩編において、王たちに向かって神々や神の子という言葉が用いられています。そのことを確認した上で、イエスさまは、神の言葉を受け止めている人たちが「神々」と呼ばれる人たちなのだと、定義づけました。それに従うならば、神の言葉を受け止めて行動する自分が神の子であると言ったとしても問題ないことでしょと、イエスさまはここで弁明しています。神々を死ぬべき存在として位置づけるこの詩編を用いることによって、イエスさまは自分が人間であることを強調しているようにも見えてきます。それは、神の子であるイエスさまが、死ぬべき人間となったということです。イエスさまはご自分が神であることに決して固執することはありませんでした。むしろ、イエスさまは私たちと同じ人となり、私たちが抱える悩みや苦しみを知り、困難を共に味わい、共に生きることに固執し、こだわりました。神が人となり、私たちと共に生きることに固執し、そこにこだわったのは、私たちがそのような叫び声を上げ続けているからです。うめき声に耳を傾けるほどに、神が私たちを愛し、慈しんでいるからです。私たちが日常的に抱える叫びも、悩みも、嘆きも、受け止め、そんな私たちを支え、共に歩むために、イエスさまは私たちのもとに来てくださいました。イエスさまが私たちに歩み寄り、愛し抜くことにこだわり、固執したことを私たちは知っているからこそ、私たちもイエスさまのように、共に生きる人たちを慈しみ、愛をもって、平和のうちに生きる道を選び続けていきたいと思うのです。
By 小山ナザレン教会2025年11月16日 三位一体後第22主日
説教題:主イエスがこだわったこと
聖書: ヨハネによる福音書 10:31–42、ホセア書 11:1–9、詩編 82、エフェソの信徒への手紙 4:32–5:2
説教者:稲葉基嗣
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きょう開いた福音書の物語は、とても物騒な始まり方をします。ユダヤの宗教指導者たちは、イエスさまを石打ちにしようとしています。ユダヤの宗教指導者たちがこのような態度を取っているのは、イエスさまが神への冒涜とも受け取れるようなことを発言したからでした。「私と父とは一つである。」(30節)自分を神と同一視しているように聞こえるこの発言は、神を冒涜する、とても問題のある発言としてユダヤの宗教指導者たちには聞こえました。ただ、「私と父とは一つである」と発言をしたイエスさま自身は、自分と神とを完全に同一視することを伝えようとしたわけではなかったでしょう。自分と神はひとつであるというイエスさまのこの発言の趣旨は、神の願いを自らの願いとして受け止めて、行動へと移していくということです。誤解されたことは明らかでしたが、イエスさまはその発言を取り下げません。イエスさまはむしろ、石を手に握るユダヤ人たちに、旧約聖書の言葉を思い起こさせ、自分の語ることの正当性を伝えようとしました。その際、イエスさまは「あなたがたは神々である」という詩編の言葉を用いました。詩編において、王たちに向かって神々や神の子という言葉が用いられています。そのことを確認した上で、イエスさまは、神の言葉を受け止めている人たちが「神々」と呼ばれる人たちなのだと、定義づけました。それに従うならば、神の言葉を受け止めて行動する自分が神の子であると言ったとしても問題ないことでしょと、イエスさまはここで弁明しています。神々を死ぬべき存在として位置づけるこの詩編を用いることによって、イエスさまは自分が人間であることを強調しているようにも見えてきます。それは、神の子であるイエスさまが、死ぬべき人間となったということです。イエスさまはご自分が神であることに決して固執することはありませんでした。むしろ、イエスさまは私たちと同じ人となり、私たちが抱える悩みや苦しみを知り、困難を共に味わい、共に生きることに固執し、こだわりました。神が人となり、私たちと共に生きることに固執し、そこにこだわったのは、私たちがそのような叫び声を上げ続けているからです。うめき声に耳を傾けるほどに、神が私たちを愛し、慈しんでいるからです。私たちが日常的に抱える叫びも、悩みも、嘆きも、受け止め、そんな私たちを支え、共に歩むために、イエスさまは私たちのもとに来てくださいました。イエスさまが私たちに歩み寄り、愛し抜くことにこだわり、固執したことを私たちは知っているからこそ、私たちもイエスさまのように、共に生きる人たちを慈しみ、愛をもって、平和のうちに生きる道を選び続けていきたいと思うのです。