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2025年10月19日 三位一体後第18主日
説教題:門である主イエス
聖書: ヨハネによる福音書 10:1–10、エレミヤ書 23:1–8、詩編 121、エフェソの信徒への手紙 1:3–6
説教者:稲葉基嗣
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イエスさまが語ったたとえ話は、羊と羊飼いの関係性に注目したものでした。このような物語に耳を傾けていた人々の反応を確かめた後、イエスさまは「私は羊の門である」(7節)と言って、たとえ話の解説を始めました。なぜイエスさまは、門と自分を重ね合わせて欲しいと願ったのでしょうか。夏の間に牧草地で過ごす際、一時的に作られる囲いには門がありませんでした。門や門番の代わりに、羊飼いが入口を塞ぐように眠りました。羊飼いこそが、門の役割を担い、夜通し羊たちを守る存在でした。同じように、イエスさまもその門を通った人々の命を守る存在だということです。たとえ話に盗人や強盗が登場することによってその意味合いは強められています。盗人や強盗がすることは、どれもが命を傷つけることです。現代社会において私たちの命は様々な形で傷つけられ、そして損なわれています。イエスさまは、この世界において私たちの命を傷つけ、踏みにじる大きな原因となっている私たち人間の罪の支配から、私たちを救い出し、命の道へと導くために、来てくださいました。イエスさまは罪の赦しを宣言し、私たちの傷ついたこの命が回復されるという希望を私たちに告げる門です。イエス・キリストこそが、私たちに神の救いと希望を与える門です。興味深いことに、イエスさまは羊たちが門を出入りする様子を伝えました(9節)。一度だけ門であるイエスさまを通れば良いという意味ではないようです。何度も、何度も、囲いの中と外を出入りする門として、イエスさまはご自分のことを描きました。門であるイエスさまを通って、何度も出入りすることは、そういった変化を私たちが味わうことと似ています。変わっていくのは、私たちのこの目や心だと思います。門であるイエスさまを通って、出入りすることによって、私たちの世界の見つめ方が変えられていきます。門であるキリストを通して、神の愛や憐れみに触れ、神の愛や憐れみを知った私たちが、この世界を見つめる時、私たちにとって、この世界は決してまったく同じものであることなどできません。門である主イエスとの出会いは、私たちにとって単に、神が提供してくださる救いへの入口ではありません。イエスさまを通して、神の愛と憐れみを知り、神の恵みのうちに日々造り変えられる。そんな私たち一人ひとりの命を更に豊かにし、養う出会いです。
By 小山ナザレン教会2025年10月19日 三位一体後第18主日
説教題:門である主イエス
聖書: ヨハネによる福音書 10:1–10、エレミヤ書 23:1–8、詩編 121、エフェソの信徒への手紙 1:3–6
説教者:稲葉基嗣
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イエスさまが語ったたとえ話は、羊と羊飼いの関係性に注目したものでした。このような物語に耳を傾けていた人々の反応を確かめた後、イエスさまは「私は羊の門である」(7節)と言って、たとえ話の解説を始めました。なぜイエスさまは、門と自分を重ね合わせて欲しいと願ったのでしょうか。夏の間に牧草地で過ごす際、一時的に作られる囲いには門がありませんでした。門や門番の代わりに、羊飼いが入口を塞ぐように眠りました。羊飼いこそが、門の役割を担い、夜通し羊たちを守る存在でした。同じように、イエスさまもその門を通った人々の命を守る存在だということです。たとえ話に盗人や強盗が登場することによってその意味合いは強められています。盗人や強盗がすることは、どれもが命を傷つけることです。現代社会において私たちの命は様々な形で傷つけられ、そして損なわれています。イエスさまは、この世界において私たちの命を傷つけ、踏みにじる大きな原因となっている私たち人間の罪の支配から、私たちを救い出し、命の道へと導くために、来てくださいました。イエスさまは罪の赦しを宣言し、私たちの傷ついたこの命が回復されるという希望を私たちに告げる門です。イエス・キリストこそが、私たちに神の救いと希望を与える門です。興味深いことに、イエスさまは羊たちが門を出入りする様子を伝えました(9節)。一度だけ門であるイエスさまを通れば良いという意味ではないようです。何度も、何度も、囲いの中と外を出入りする門として、イエスさまはご自分のことを描きました。門であるイエスさまを通って、何度も出入りすることは、そういった変化を私たちが味わうことと似ています。変わっていくのは、私たちのこの目や心だと思います。門であるイエスさまを通って、出入りすることによって、私たちの世界の見つめ方が変えられていきます。門であるキリストを通して、神の愛や憐れみに触れ、神の愛や憐れみを知った私たちが、この世界を見つめる時、私たちにとって、この世界は決してまったく同じものであることなどできません。門である主イエスとの出会いは、私たちにとって単に、神が提供してくださる救いへの入口ではありません。イエスさまを通して、神の愛と憐れみを知り、神の恵みのうちに日々造り変えられる。そんな私たち一人ひとりの命を更に豊かにし、養う出会いです。