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「パンを裂いてお渡しになった」(ルカ福音書第24章30節)
2023年4月23日 復活節第3主日
「エマオでの顕現」と呼ばれるこの箇所では、弟子のクレオパともう一人が、故郷へ帰る道で、ある人と出会います。その人は悲しい顔をしている二人に旧約聖書を解き明かし、救い主の死と復活について熱く語ってくださいました。そして晩の食卓で「パンを裂いてお渡しになったとき」クレオパたちの心の目が開き、その人は実は復活したイエスさまだと気づきます。
なぜパンを割いて渡す動作がクレオパたちの心の目を開いたのでしょうか。それは、イエスさまから自分にパンが「渡される」ことのうちに、主の晩餐を思い出したからです。そして主の晩餐が、イエスさまの犠牲の死を意味していたのだと悟ったのです。「いま目の前に生きておられる方は、死に引き渡されたイエスさまだ」と。
つまり「渡される」パンのうちに「死刑に引き渡された」イエスさま(24:20)が現れるのです。「渡された」パン、そして死に「引き渡される」の二つの言葉は「渡される、ディドオーミー」という同じ語源を持ちます。パンが弟子に渡されるように、イエスさまは死刑に引き渡されました。(ルカ24:20) その全く受け身の姿が、罪と悪を我が身に受けて死なれた姿と重なるのです。
イエスさまは「渡される」神さまです。弟子とご自分の民に拒まれ、敵に渡され、殺されました。私たちの罪を代わりに受け、犠牲となって「死に渡され」ました。それは私たちが「死に渡され」ないためです。逆に、渡されたイエスさまの命によって、わたしたちが生かされるためです。罪が赦され、すべての悪の束縛から解放されるためです。
イエスさまは、罪と死の奴隷になっていた私たちを解放するために、自ら選んで「身代金」となって渡された神さまです。そして犠牲になって渡されたその命を受けて、私たちは復活の命に生かされます。
愛する人のために自ら選んで「渡される」存在となる。自らを与える。これが神さまの愛です。自らを無にして、全く受け身になって、ご自分の命をお与えになる愛です。
これは私たちの礼拝生活、聖餐式そのものです。人生の旅路で「暗い顔」になるとき(24:17)、復活のイエスさまは聖書を通して、その愛で私たちの心を燃やされます(24:32)。そして聖餐で渡されるパンのうちに、「渡される存在」となってご自分をお与えになられます。 私たちに「渡される」のです。
渡されるパンになる神さま、イエスさまが語りかけてこられます。
「あなたのためなら、わたしは何にでもなる。パンにでもなる。誰にでも、どこにでも渡される。全く受け身にもなる。そしてあなたの代わりに死に渡され、あなたに命を渡す。わたしにとってこれ以上の喜びはない。あなたが生きるための食べ物になるのだから。わたしを受け取り、食べなさい。そしてあなたも復活の命に生かされて、渡されるパンのようになって人を愛しなさい。」
「パンを裂いてお渡しになった」(ルカ福音書第24章30節)
2023年4月23日 復活節第3主日
「エマオでの顕現」と呼ばれるこの箇所では、弟子のクレオパともう一人が、故郷へ帰る道で、ある人と出会います。その人は悲しい顔をしている二人に旧約聖書を解き明かし、救い主の死と復活について熱く語ってくださいました。そして晩の食卓で「パンを裂いてお渡しになったとき」クレオパたちの心の目が開き、その人は実は復活したイエスさまだと気づきます。
なぜパンを割いて渡す動作がクレオパたちの心の目を開いたのでしょうか。それは、イエスさまから自分にパンが「渡される」ことのうちに、主の晩餐を思い出したからです。そして主の晩餐が、イエスさまの犠牲の死を意味していたのだと悟ったのです。「いま目の前に生きておられる方は、死に引き渡されたイエスさまだ」と。
つまり「渡される」パンのうちに「死刑に引き渡された」イエスさま(24:20)が現れるのです。「渡された」パン、そして死に「引き渡される」の二つの言葉は「渡される、ディドオーミー」という同じ語源を持ちます。パンが弟子に渡されるように、イエスさまは死刑に引き渡されました。(ルカ24:20) その全く受け身の姿が、罪と悪を我が身に受けて死なれた姿と重なるのです。
イエスさまは「渡される」神さまです。弟子とご自分の民に拒まれ、敵に渡され、殺されました。私たちの罪を代わりに受け、犠牲となって「死に渡され」ました。それは私たちが「死に渡され」ないためです。逆に、渡されたイエスさまの命によって、わたしたちが生かされるためです。罪が赦され、すべての悪の束縛から解放されるためです。
イエスさまは、罪と死の奴隷になっていた私たちを解放するために、自ら選んで「身代金」となって渡された神さまです。そして犠牲になって渡されたその命を受けて、私たちは復活の命に生かされます。
愛する人のために自ら選んで「渡される」存在となる。自らを与える。これが神さまの愛です。自らを無にして、全く受け身になって、ご自分の命をお与えになる愛です。
これは私たちの礼拝生活、聖餐式そのものです。人生の旅路で「暗い顔」になるとき(24:17)、復活のイエスさまは聖書を通して、その愛で私たちの心を燃やされます(24:32)。そして聖餐で渡されるパンのうちに、「渡される存在」となってご自分をお与えになられます。 私たちに「渡される」のです。
渡されるパンになる神さま、イエスさまが語りかけてこられます。
「あなたのためなら、わたしは何にでもなる。パンにでもなる。誰にでも、どこにでも渡される。全く受け身にもなる。そしてあなたの代わりに死に渡され、あなたに命を渡す。わたしにとってこれ以上の喜びはない。あなたが生きるための食べ物になるのだから。わたしを受け取り、食べなさい。そしてあなたも復活の命に生かされて、渡されるパンのようになって人を愛しなさい。」