2025年10月26日聖霊降臨後第20主日(特定25)
自信から憐みへ
「神さま、罪人の私を憐んでください」ルカ18・13
私は、真面目過ぎるほどに「よい」牧師になりたいと願ってきました。「よい」働きをしたいと努力してきました。一人で祈り、人と共に祈り、聖書を読み、病気の人や施設にいる人を訪ね、教会に仕えてきました。特にみ言葉を伝える説教の働きを大切にしてきました。主イエスさまに生涯をかけきました。
しかし、真面目に生涯をかけてきたからこそ、少しでも良い働きができないと自信を失い、自分の価値、「よさ」を疑いがちです。
そう思うとこの譬えのファリサイ派の人が自分に思えてきます。彼は神の言葉をよく読み実行します。搾取、不正、姦淫を遠ざけ、十分の一献金を献げ、週に二度も断食します。真面目で「よい」先生です。神さまに生涯をかけています。徴税人を直接断罪するのではなく、そうでない自分を感謝する。見方によれば、素晴らしい姿勢です。
ただその信仰は「自分のよさ」に頼る自信です。自分の価値は良い働きにある。だから自信を持つために真面目に努力します。
それに対して徴税人は、ローマ帝国から徴税権を買い、好きなだけ同胞から金を巻き上げてきた、大金持ちの悪人です。
この悪人が神殿に祈りに来ます。神の前で、自信はありません。「よい」先生から遠く離れ、胸を打って自分を恥じ、それでも神の憐れみを信じて自分をさらします。「神さま、私を憐れんでください。」
ここでイエスさまは譬えを終えて宣言します。「義とされたのはこの人であってファリサイ派の人ではない。」悪人は自信ではなく神の憐みに頼ったからです。
イエスさまはどうだったのでしょうか。自信満々に十字架へと向かったのでしょうか。いや、自信なく、ただただ父の憐みに頼っていかれたのではないでしょうか。
人生の旅が深まるにつれて私たちは、自信によって歩む段階から、神の憐れみによって歩んでいく段階に入っていくのだと思います。
「自信ではなく憐みによって、この世が知らない力によって、生きていこう。私と一緒に生きていこう。」
そういえばあまりにも真面目すぎる私に主治医が言ってくれました。「荒木さん、『ダメ牧師』でいなさいよ。そのほうが牧師らしいんだから。」 私は少しは牧師らしくなったでしょうか。ぜひあなたも「ダメ・クリスチャン」でいてくださいね。自信満々ではなく、主の憐れみに頼るクリスチャンに。