Share 説教・聖書メッセージ「みちことば」
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2024年11月17日 降臨後第26主日(特28)聖餐式
「逃げちゃいけない。目をそむけちゃいけない。頑張れ。」とよく言いますが、ここでイエスさまは「逃げなさい」と言われます。
この言葉が書かれた歴史的背景は、紀元後70年のローマ軍によるエルサレム陥落です。凄惨を極めた兵糧攻めでは食人が起こり、派閥争いで殺し合い、赤子は城壁から投げ落とされ、捕らえられた何千人もの人が街から見えるように十字架につけられました
「聖なる神が住まう神殿、聖なる都」と信じられてきたエルサレムは「憎むべき破壊者」と呼ばれる将軍ティトゥスに破壊されたのです。
その70年代にマルコが物語るイエスさまは、「逃げなさい」と語りかけます。エルサレムは神の都だ、という古い信仰を捨て、神殿を中心にした古い宗教組織を捨て、何もかも捨てて、後ろをふりかえらずに逃げなさい。そして命を救いなさい。神さまが与えたあなたの命は、古くて悪い組織より大切だ、と。
思えば太平洋戦争中に、どれだけ多くの親が息子を戦場に送る際に囁いたでしょうか。「必ず生きて帰って来なさい。」 軍国主義に染まらない親の愛は真実を知っています。戦争よりも命のほうが大切なのです。「逃げなさい、あなたの命はもっと大切なことのためにある」。
または人間関係、ハラスメントやいじめにあって、神さまは「逃げなさい」と言いう時があります。もう戦わなくていい、耐えなくていい、自分を大切にして、命を守りなさい。私と共に逃げなさい。あなたが生きていること、それが私の望みだ。
戦うのはイエスさま一人で十分です。イエスさまは私たちが戦わなくていいように、全ての戦いを担い、全ての攻撃を十字架で受けて、殺されました。それは私たちを死から新しい命へと逃すためだったのです。「出エジプト」のように共に脱出するためだったのです。
私たちは大切な命を抱え、罪と死の悪から「出エジプト」するべき時があります。無用に戦わず、主に背負われて、なりふり構わず命の国へと逃げるのです。
過越の食事に養われて、復活した主イエスさまと共に脱出していきましょう。古い死から新しい命へ。
「逃げなさい。守りなさい。わたしが愛するあなたの命を。」
信仰生活で最も大切な律法は何かと問われたイエスさまは、古代の祈りを引用して答えました。「心を尽くして神と人を愛しなさい。」
「心を尽くして」の原文は「全ての心で」です。神は人間の全てを愛する唯一の主。だからどのような心の状態でも、どのような日でも、神と人を愛しなさい、と。
神と人を愛す。この律法を最も意識するのが日曜日の聖餐式です。聖餐式ではイエスさまが私たちを愛して、ご自分の命を与えてくださいます。そして主の愛を意識して成し遂げようと頑張るのが、信徒の平日の生活でしょう。
でも頑張らない、働かない、または何の特別なイベントのない「信仰の休日」もあると思います。私は日曜日にむけて働きますので普通は月曜日が休日です。週休二日の方は土曜日でしょうか。または引退生活の方は、何かの活動から最も遠い、平日の昼下がりかもしれません。最も「頑張らない」、最も「信仰濃度」が薄い日です。
朝寝坊の日、買い出しの日、お風呂に入る日、テレビを見ているとき、ご飯を食べているとき、ご近所さんと立ち話をしているとき、家族と食卓を囲むとき、電話しているとき、「遊んでいる」とき・・・
そんな「信仰の休日」のような日も「すべての心で」神と人を愛することが勧められています。神や十字架や教会からまったく関係ないような日にも、頑張らない愛し方で、神と人を愛するのです。
それが可能なのは、リラックスして「頑張らない」休日は、自分が何もしなくても生活の隅々にまで神が居て、隣人も含めて自分たちを愛して下さっていることを悟る日々だからです。この信仰が困難を超えて人を愛す力になります。
イエスさまの「信仰の休日」は、頑張って十字架の上で全人類の救いを達成したあと、復活して「おはよう」と言って弟子たちと共にいた日々です。もうそこでは命を与えようと頑張ったり、悪と死の力と戦ったりする必要はなく、何気ない静かな時間のなかで、ただ愛する弟子たちと共にいて、感謝して、賛美して、食事をするだけです。
「ハレルヤ、主と共に行きましょう」と送り出される先の休日で、休日の信仰を実践しましょう。
「休日にこそ私の愛を悟りなさい。その愛が、頑張らねばならない日に、あなたを力づける。」
ある日、いつもように上着を広げて物乞いをしていたとき、ダビデの血筋の救い主が来たと知ります。彼は持てる全ての力で自由への願いを叫びました。「エレイソン! 憐みをお与えください!」多くの人に押しのけられ、蹴られ、口をふさがれても、自由を求めました。チャンスは今しかない。「エレイソン!」
イエスさまはその声を聞き、彼を呼びました。すると彼は喜んで全財産の入った外套を捨て、復活するように躍り上がり、イエスさまのもとへ来ました。そして願ったのは弟子らの高慢な願い、「神の右と左に座る」ことではなく(37)、ただ「見えるようになる」ことでした。障害に支配されない本来の自由な姿、神の似姿に戻りたい、と。盲目の不自由から、自由になりたいと。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」願いは成就した。目は癒され、不自由から自由なりました。そして開かれた目で見たのは、命を与えるために十字架へと向かうイエスさまでした。バルティマイは自分勝手な方角にではなく、イエスさまに付いていきました。自由への願いを満たしてくださったお方に感謝し、惹きつけられ、魅了され、付いていきました。
私は自由だと思っていますが、神との関係では私は不自由です。執着によって心の目が不自由です。「誰が一番偉いか」という名誉欲に(9:34)、人を排斥する独占欲に(38)、金銭欲に(10:22)、神の栄光を欲しがる「原罪」に(37)、そして暗い心に縛られています。不自由なく、自由に神を見続けていたい。神と自分と人を愛していたい。
イエスさまが自由にしてくだいます。イエスさまは父の愛に従いました。そして十字架で自分が縛られることで、私たちを悪の束縛から解き放ち、心の目を開き、自由にしてくださいました。
ただし私たちも心の目で、愛の十字架に向かうイエスさまの背中を見ます。そしてイエスさまに付いていく。その先に十字架があっても付いていく。それが弟子になる自由です。従うことを選ぶ、真の自由です。イエスさまの後に付いていく時、自分勝手な執着から本当に自由になれるのです。イエスさまの与える自由は従う自由です。
聖餐式で私たちを「苦しみから解き放つ」主の声を聞き取ろう。
「私は心の目を開き、あなたは自由になり、私を見た。どうする。私に付いて来るか、来ないか。」
「多くの人の身代金として自分の命を献げる」マルコ10:45
2024年10月20降臨後第22主日(特24) 聖餐式
イエスさまは私たちの「身代金」として、私たちの身代わりとなって死なれました。
身代金とは奴隷に売られた親族を買い戻すお金です。愛のお金です。この意味で「あがない主」の漢字は正しくは「贖い」ではなく「購い」です。代わりの何かを支払って、奴隷を解放するのです。
この意味で、出エジプトでは、民は奴隷状態から購い出されました。身代金は、屠ってその血を家々の鴨居に塗った「過越しの子羊」でした。また、バビロンからの帰還でもまた民は捕囚から購い出されました。身代金は「主の僕」と呼ばれて身代りに苦しむ、無名の人物または民全体の象徴でした。
そしてイエス様が無実で死んだとき、民は「主の僕」を思い出しました。私たちは罪と死に支配されていますが、主イエスさまは私たちの身代わりになってその力を受け、身代金としてご自分の命を払い、私たちを購い出されました。(私はとくに病気で暗い心になるとき、身代わりを信じます) 私たちは未だ解放されていませんが、主の復活によって解放は既に始まり、終わりの時には完全に自由になります。
マキシミリアノ・コルベ神父という人がいます。9歳の時に殉教を志しました。彼はアウシュヴィッツ収容所に捉えられました。ある日、脱走に対する連帯責任が問われ、餓死室に送られる10人が選ばれます。そのときガヨヴニチェクという男が「あぁ子供に会いたい」と泣き出しました。すると神父は進み出たのです。「私はこの人の身代わりになりたい。」奇跡的にもその願いが許され、代わりに餓死室へと送られました。飢えと渇きで狂死する監獄が、聖歌と祈りが響く礼拝堂になりました。その後、死に至る注射で殉教し、天へ上りました。
コルベ神父が身代わりになるほどに他人を愛せたのは、やはりイエスさまの身代わりの愛を受けていたからだと思います。だからイエスさまと同じように身代わりになって死に、自分の命を愛のために捧げ、殉教し、神の愛を現しました。人間の愛の可能性を現しました。
「あなたがたおよび多くの人のために流すわたしの新しい契約の血」と聞くとき、身代わりの愛を聴きましょう。「わたしはあなたの身代わりになる程、あなたを愛している。」
もちろん私たちは聖人ではありません。しかし小さな日常生活で人を思いやり、「この人のしんどさを少しでも担おう」とするとき、その愛は同じ方向を向いています。人の身代わりになる愛の方向で方向です。
「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創世記2:23)
イエスさまの論敵は罠を仕掛けました。「離婚は許されているか否か。」「許されている」と答えれば神の声を無視することになり(マラキ2:16)、「許されていない」と言えばモーセの許可(申24:1)を覆すことになります。
イエスさまはしかし、申命記の「離婚の許可」を神のみ心に従わない人の心の頑なさに由来する非本来的なものだとしました。神ご自身の本来の意図は創世記にある、と。
創世記には人と人がパートナーとして共に生きる幸せが描かれています。「人が独りで生きるは良くない」「ついにこれこそ私の骨の骨、肉の肉」「二人は一体となる。」
ここでは結婚が人の生き方の指針にまで高められています。人は人に誠実を尽くし、愛し合い、赦し合い、共に生きようとするとき初めて人間らしくなる。結婚しているように人と共に生きなさいと。
教会の信徒同士でも、本来は結婚相手のように、共に生きられればいいのでしょう。「あんな人にそんなことできない」と思うのが現実ですが、神には理想があります。
それに結婚相手にだって「あんな奴!」と思うのですから。夫婦は喧嘩しながら、忍耐し合いながら、赦し合いながら、喜びも悲しみも共にしていく関係なのです。
結婚しているように一体となって生きる。イエスさまの内に、頑なな古い時代は終わり、愛が支配する新しい時代が始まりました。主は自ら父と一体となって生き、罪を担われました。そして復活して私たちと一体となり、共に生きる道を開かれました。
聖餐の内に主の声を聞きましょう。「私はあなたと一体となって生きる。人と一体になって生きる。この幸せがあなたにもあるように。」
「私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである」
マルコ9・40
弟子の訓練が続きます。マルコの教会に他のグループの噂が入ってきました。「悪霊を追い出す」というイエスさまの働きが行われているというのです。弟子達は「私たちに従わないので、やめさせようとしました」と言いました。ここでは「イエスさま、あなたに従わないので」ではなく「わたしたちに従わないので」と言っています。自分たちのグループに属さないので排斥しようとしたのです。
しかしイエスさまは戒めました。「やめさせてはならない。」悪口は言わないだろうし、敵ではないから味方なのだからと。排斥するな。グループ争いをするな。ただ神の愛に基づいて、神の国のために働きなさい、と。
これは教会間の問題だけではありません。教会内の課題でもあります。グループがある必ず他の人を排斥したり、そこに入れない「小さな者」も出てきてしまいます。「群れたらあかんぞ」と老司祭は教えたそうです。
これはまた個人の生き方の課題でもあります。私も含め、人を排斥し、否定することでしか自分を支えられない心は、とても悲しい心です。もしかするとそうして排斥しているうちに、人の内に宿られるイエスさまを排斥してしまっているかもしれません。神の愛に基づくとき私たちは初めて人を受け容れ、優しく包み、肯定することができます。
イエスさまは私たちの誰をも排斥されません。その代償として私たちが人を排斥する心をその身に受け、代わりに「排斥されて」殺されました。私たちが排斥したのです。そうして私たちを変え始められました。他者を排斥せず、受け容れられる人に変え始められたのです。
「すべての人を一つの体とし、聖霊を満たしてくださる神。」この神は決して私たちを排斥されません。この神の霊に満たされて、人を排斥せず、肯定するように召されています。 「あの人もこの人も、あなたと同じ私の弟子だ。排斥せずに肯定しなさい。一致しなさい。排斥はすべて私が十字架で引き受けたのだから。」
神さまの従者「すべての人に仕える者になりなさい。」マルコ9:35
師匠と弟子の心がこれほどまでに離れているとは・・・。
イエスさまはもう奇跡は行わず、ただ受難の道を進まれます。それなのに弟子達は師匠の思いを「分からず」、「誰が一番偉い(大きい)か」と言い合っています。「あの人は良い、この人は悪い」と言い合うのは当時も今、牧師仲間でも信徒仲間でも同じかもしれません。誰が誰に仕えるべきか。
それに対してイエスさまは「すべての人に仕える者になりなさい」と教えます。正直、イヤです。食事でも人間関係でも、仕えてもらうほうがいい。でも「仕えなさい」と。
ただしここで主は、仕えることを「偉くなるための善行」として命じているのではありません。弟子達の言い合いに逆戻りしてしまいす。「仕える」のは偉くなるためではなくて、あくまでも相手を愛するからです。人を愛するとき、私たちは自分の「偉大さ」や評価さえ捨てて、相手に仕えることができています。
イエスさまは「仕えるために多くの人の身代金として自分の命を献げる」と言って、十字架で命を与えられました。(マルコ10:45)神が私たちに仕えてくださるのです。
仕えるというのは、人を愛して自分を与えることです。物、体、労力、時間、空間、地位、プライド、そして最後には命をも与える。義務の範囲には収まらない愛です。
ドラマ「光る君へ」では乙丸という独り身の従者が出てきます。なぜ結婚しないのかと姫様に問われて答えます。「(殺された姫様の母である)北の方様がお亡くなりになったとき、私は何も・・・(できませんでした)。せめて姫様だけはお守りしようとお誓いしました。それだけで日々、精一杯でございます。」
人を愛して忠義を尽くし、自分を与え尽くす。なんと美しい生き方でしょうか。これは善行の義務ではなく、生き方の美しさです。
それをイエスさまは貴族や偉大な人にではなく、子供のように社会や教会で小さくされた者にしなさいと教えられました。「私は小さくされた者の中にいる」と。小さく裂かれるパンに主の声を聴きましょう。
「私の従者として、小さい者に仕え自分を与えなさい。神さまの従者として人に仕える生き方、それこそがあなたを美しくするのだから。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください」 マルコ福音書9章24節
ある父親の愛する息子がてんかんに苦しんでいます。それはまるで霊に取り憑かれているようです。地面に引き倒され、泡を吹き、歯ぎしりして硬直し、火や川に入って自殺しようとする程の苦しみです。
苦しむ息子を見て父親はどれだけ胸を痛めていたか。息子をイエスさまのもとに連れてきました。弟子たちが対応しますが、自分で治せると思い上がる「不信仰な」弟子達には癒すことができません。「この人たちではダメか。」
そして心に疑いを持ちつつイエスさまに直接「ダメもと」で願いました。「できれば、お助けください。」
そうするとイエスさまは一抹の疑いを見透かして、喝を入れました。「できれば、と言うか。信じる者には何でもできる。」そして父親は一瞬で悔い改めて叫びます。聖霊に突き動かされて言いました。「信じます、信仰のないわたしをお助けください!」「疑う自分をどうか変えてください!」この叫びを聞き入れてイエスさまは息子を癒されました。
イエスさまは誠実を求められます。否定的な部分に対しても、です。「信じられない、教会がつまらない、祈る気にならない、神さまが分からない、愛せない、罪を重ねている、誠実にさえなれない。」こんな思いを認めることは苦しいことですが、それを神の前で認めること、それが聖霊の働く懺悔の祈りです。この父親のように、まず肯定的に信じて、そして否定的な面も認めて、変えてもらうように願うのです。
私は毎週祈っています。「神さま、私はあなたを信じて、信徒の心に語りかけるあなたの言葉を語ります。しかし自分の中には、何も感じず、あなたを信じず、信徒の心に語り掛けようともしない自分もいます。どうか私を憐れみ、助けてください。私を変えてください。」
人は人の前で、神さまの前で、また自分自身の前で、誠実になることで変わっていきます。
最も誠実な人、それがイエスさまです。「神よ、なぜ私を見捨てたのか。」十字架上で不信仰への誠実を献げられました。それも自分だけの誠実ではなくて、私たち全人類の誠実を献げました。杯を飲みたくない思い、見放されたと絶望する思い。それを認めて捧げて、変えてください、と願いました。私たちはイエスさまのなかで、神さまにもっとも誠実になるのです。
そして復活のうちに、全く神に誠実で透明な存在に変わります。似姿になります。そうすると、人間は神さまの誠実を映し出し始めます。神さまの誠実、それは何があっても私たちを愛し続けてくれることです。私たちが最も誠実であるとき、神さま自身が誠実に愛そのものであるご自分を表してくださるのです。そして、その愛が誠実であろうとする私たちを変えてくださるのです。
思いと言葉と行いによって、と懺悔するとき、主の声を聴きましょう。「誠実になりなさい、私は必ずあなたを変えるから。」
「信じます。信仰のないわたしをお助けください」
マルコ福音書9章24節
2024年9月15降臨後第17主日(特19)聖餐式
ある父親の愛する息子がてんかんに苦しんでいます。それはまるで霊に取り憑かれているようです。地面に引き倒され、泡を吹き、歯ぎしりして硬直し、火や川に入って自殺しようとする程の苦しみです。
苦しむ息子を見て父親はどれだけ胸を痛めていたか。息子をイエスさまのもとに連れてきました。弟子たちが対応しますが、自分で治せると思い上がる「不信仰な」弟子達には癒すことができません。「この人たちではダメか。」
そして心に疑いを持ちつつイエスさまに直接「ダメもと」で願いました。「できれば、お助けください。」
そうするとイエスさまは一抹の疑いを見透かして、喝を入れました。「できれば、と言うか。信じる者には何でもできる。」そして父親は一瞬で悔い改めて叫びます。聖霊に突き動かされて言いました。「信じます、信仰のないわたしをお助けください!」「疑う自分をどうか変えてください!」この叫びを聞き入れてイエスさまは息子を癒されました。
イエスさまは誠実を求められます。否定的な部分に対しても、です。「信じられない、教会がつまらない、祈る気にならない、神さまが分からない、愛せない、罪を重ねている、誠実にさえなれない。」こんな思いを認めることは苦しいことですが、それを神の前で認めること、それが聖霊の働く懺悔の祈りです。この父親のように、まず肯定的に信じて、そして否定的な面も認めて、変えてもらうように願うのです。
私は毎週祈っています。「神さま、私はあなたを信じて、信徒の心に語りかけるあなたの言葉を語ります。しかし自分の中には、何も感じず、あなたを信じず、信徒の心に語り掛けようともしない自分もいます。どうか私を憐れみ、助けてください。私を変えてください。」
人は人の前で、神さまの前で、また自分自身の前で、誠実になることで変わっていきます。
最も誠実な人、それがイエスさまです。「神よ、なぜ私を見捨てたのか。」十字架上で不信仰への誠実を献げられました。それも自分だけの誠実ではなくて、私たち全人類の誠実を献げました。杯を飲みたくない思い、見放されたと絶望する思い。それを認めて捧げて、変えてください、と願いました。私たちはイエスさまのなかで、神さまにもっとも誠実になるのです。
そして復活のうちに、全く神に誠実で透明な存在に変わります。似姿になります。そうすると、人間は神さまの誠実を映し出し始めます。神さまの誠実、それは何があっても私たちを愛し続けてくれることです。私たちが最も誠実であるとき、神さま自身が誠実に愛そのものであるご自分を表してくださるのです。そして、その愛が誠実であろうとする私たちを変えてくださるのです。
思いと言葉と行いによって、と懺悔するとき、主の声を聴きましょう。「誠実になりなさい、私は必ずあなたを変えるから。」
「天を仰いで呻き」 マルコ福音書7:34
2024年9月8日降臨節第16主日(特定18)
癒しの物語はときに遠く感じられます。「私には奇跡は起こらないから関係ない」。しかしそれは聖書を自分中心に読むことです。
神さま中心に読んでみると、聖書全体は創造の物語です。創造の喜びから、罪と死の苦しみ、しかし神の民とメシアを通して来る新しい創造の物語です。
そして私たちの時代は「終わりの始まり、新しい創造」の時代です。イエスさまの死と復活を通して神の支配が世界におよび、神が死に勝ち、世界が新しい命に再創造される時代です。奇跡とはこの新しい支配の表れです。病院では数々の奇跡が日夜起こっています。
そしてここでイエスさま、口が利かない人を癒す直前に「天を仰いで深く息をついた。」新しい翻訳では「呻いた」とあります。癒されたこの人の気持ちでもあり、私たちすべての呻きを集約した呻きです。
癒されたい、苦しみから解放されたい、赦されたい、もう一度会いたい、変わりたい。私たち人間の呻きをイエスさまが共に呻いてくださる。そして復活によって呻きを成就してくださる。これは世界全体の呻きでもあります。(ロマ8・22)
イエスさまの呻き、それが聖霊です。「霊自らが言葉に表せない呻きをもって執り成して下さる。」(ロマ8・26)言葉にできないような苦しみのなかでも、主イエスさまは私たちの内で共に呻いてくださる。神が共に呻いてくださる。何という安心、何という喜びでしょうか。
思い起こすのは、妻が出産時に呻いていたとき、私はただ背中をさすってあとはただ共に呻くぐらいでした。みなさんも、大切な人が出産や病気で苦しんでいるときは、背中をさすったりして、共に呻いてあげるでしょう。「うーん、しんどいなぁ、うーん。」イエスさまはそのようにしてくださいます。
イエスさまが十字架で苦しみ嘆いた姿、それは私たちの呻きを共に呻いた姿です。神の呻きです。その呻きによって復活が起こり、新しい創造が始まりました。
代祷でイエスさまは私たちの真中で共に呻いておられます。その呻きを成就し始められます。そして願われます。あなたたちもまた人と共に呻く者になって欲しいと。
「うーん。しんどいなぁ。うーん。」
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