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2025年4月20日 復活日
復活、それは新しい創造
「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか」 ルカ24.5
今、毎晩祈っている人のお一人がガンと闘っています。4人の子のママで、純真で明るく素敵な方です。病気に負けないように、人生を楽しんでおられます。私は祈ります。「命の創造主なる神さま、どうか抗癌剤が効いて癌細胞を死滅させてください。」
復活とは、命の創造主の「今、既にここで」働く力です。死後の世界の話だけではありません。既に働くイエス様の命の支配力です。病と死と罪に勝つ力です。天使が言うように「死者の中に捜しても見つからない、生きておられる方」です。
天地は創造主によって良いものとして創られ祝福されました。人間は身も心も、創造主が愛を込めて造った最高傑作、神の似姿です。
しかしアダムが象徴する全人類は「神に成り代わろうとする罪」によって死に支配されました。死の力は魂にも及び、人間は神をも人をも愛さない罪に支配されます。古代イスラエルもまたこの罪によって国を滅ぼしました。そんな中で「新しい創造」への希望が語り継がれてきていました。(イザヤ65・17)
その天地の新しい創造の初めがイエスさまの復活です。神は私たち人間を愛しています。生かしたいのです。一人の人となり、罪と死を引き受けて死ぬことで、罪と死を死滅させました。白血球も共に犠牲になることで、抗がん剤がガン細胞を死滅させるようなものです。
そして復活し、新しい創造が始まりました。共に死に、共に新しく生まれました。新しいアダムです。それ以後イエスさまによって、聖霊によって、弟子たちによって、世の命は創り変え続けられています。
もちろん未だ新創造は完成していません。病気は治らず、人は罪を犯し、愛する人は死にます。新創造の完成は、私たちが死んだ後に来る、新しい天地が降る終わりの時まで待たたなければなりません。
しかしイエスさまは復活した。この事実が「私たち人間の内には復活の力が既に働いている」ことの証拠です。ガン細胞の消えたレントゲン画像のようなものです。まだ実感していなくても、確かに癒されています。既に創造主が私たちを愛して、私たちの内に働いています。
新創造の主に祈ります。「どうかあなたが、抗癌剤を通して働き、彼女を癒してくださいますように。」
新創造の主は語りかけます。「私はあなたを愛している。そして新しく創造する。生かす。だから、病気を前にして、死を前にして、決して負けずに信じていなさい。」
「主は振り向いて、ペトロを見つめられた」
ルカ福音書22・61
神が私たちを新しく創り変えようと、私達の罪を受けて殺され、罪を滅ぼす。この愛の物語のどこかにあなたはいて、主はあなたを見つめておられます。
中心は主イエスさま。父への従順を貫き、罪を背負われます。私たちの罪の苦しみを背負われます。
ゲッセマネの弟子たち。イエス様の祈りについていけず眠ってしまう祈りの薄っぺらさ、集中力のなさ。
ペトロ。愛する先生を三度も否定する臆病さ弱さ。彼を見つめるイエス様の哀しみ。号泣する悲しみ。
ユダ。強い王への望みが叶わないと知って抱く、憎しみと裏切り。
大祭司と長老たち。神殿と律法の恵みを分かち合わない強欲さ。自分を批判する者を亡き者にしようとする、排他性。神の子を崇めず自分を崇める、偶像礼拝。
中庭に集まった女中。ペトロに対する週刊誌のような詮索心。
見張り。イエス様を侮辱し、ののしり、目隠しをして殴る暴力性。
ピラト。イエスは無実だと知りつつ群衆のために死刑にした保身。
ヘロデ。気晴らしに奇跡を見たがっただけの不遜さ、無理解。
群衆。棕櫚の葉で大歓迎したにも関わらず、望んだ革命を起こさないと知ると「殺せ、殺せ」と叫んで死刑を求める集団心理、狂気。
悪人であるのにイエスに代わって釈放されたバラバの幸運、驚き。
願わない形で主の十字架を背負わせられた、キレネ人シモンの従順と、神の導き。
女性たち。弟子たちが見捨てても、泣きながらついていく悲しみ。
議員と兵士。十字架の主を「自分を救わないユダヤ人の王」と言う真実の言葉であざ笑う皮肉。
イエス様と共に十字架に付けられた罪びと。そこまで神の近くにいても悟らなかった愚かさ。
対して赦しを願ったもう一人の罪びと。イエス様の真実を知り、楽園を願って叶えられた喜び。
「御手に私の霊を委ねます」と委ねて死なれた主イエスさまの最期の信頼。私たちの最期は?
百人隊長。イエスさまの無実と、罪を肩代わりに死んだ正しさを見てとった悟り。未信徒の悟り。
アリマタヤのヨセフと、ガリラヤから来た婦人たち。イエス様の遺体を丁重に葬ったの、絶望と希望。
祈りによって物語に入り、私たちの罪を受けて私たちを創り変えようとされている、イエスさまの生き様、神の愛に触れましょう。
「収穫を納めさせるために」 ルカ福音書20・10
2025年4月6日 大斎節第5主日
今年度の祈りの一つは「将来構想委員会を通して次世代の教会愛が育まれますように」です。そして私たちの教会愛の源は、神さまの教会愛です。
イザヤ書5章で神さまは「ぶどう畑の愛の歌」を歌います。肥沃な丘を掘り起こし、丁寧に石を除き、最上級のぶどうを植え、絞り場を作り、見張りのやぐらまで建てます。私たちの霊的ルーツであるイスラエルはそれほどまでに神に愛された宝の民でした。
このイメージを受け継いでイエスさまは「ぶどう畑と農夫の譬え」を語られました。主人は神さま、ぶどう畑はイスラエルの民、農夫は指導者、僕らは預言者、愛する息子はイエスさまご自身のことです。
主人は愛するぶどう畑を農夫らに貸して旅に出ます。秋になり収穫を受け取るために僕を遣わしますが、農夫らは一人、二人、三人と暴力を振るって追い返します。そこで主人は「敬ってくれるだろう」と愛する息子を送りますが、その子を外に放り出して殺します。怒った主人は農夫たちを殺して他の人たちに与えるだろう、と言うのです。
本来農夫にとって、ぶどう畑で働くことは大きな喜びでした。主人と共にぶどう畑を愛し、その実りを収穫し、分かち合い、愛の歌を共に歌う。素晴らしい喜びです。しかし収穫した農夫は変わります。分かち合うことが惜しくなったのです。一緒に喜ぶことを拒否したのです。
神の愛の収穫を分かち合わない古いイスラエルは滅び、ぶどう園は復活のイエスさまを信じる新しいイスラエル、に与えられました。死んだ息子も、人知を超えて復活し、新しい民の要になります。もちろん収穫を共に喜ぶためにです。
神さまは教会を愛して、様々な恵みを与えられます。洗礼、聖餐、み言葉、祈り、兄弟姉妹の交わり。そして何より愛する息子、イエスさまの存在を与えられます。
そして願われます。私と一緒に教会を愛して欲しい。私の愛を収穫して欲しい。み言葉の慰めを、陪餐の赦しを、信仰の明るさを、祈りの深さを、交わりの楽しさを、そして何より主イエスとの親しい友情を。まず自分がたくさん収穫して、それを私と分かちあってほしい。また兄弟姉妹と。そして「ぶどう畑の愛の歌」を共に歌って喜ぼう、と。
イエスさまは来週、私たちの強欲の結果、外に放り出されて殺されます。神さまに帰り、教会愛を育み、収穫を分かち合い、魂の死から復活の命へとゴールしましょう。
聖歌を歌って主の呼びかけに応えましょう。
「さぁ、一緒に歌おう、ぶどう畑の愛の歌を。」
2025年3月30大斎節第4主日
「父は出て来て懇願した」ルカ15・28
自分を棚に上げて思ってしまうときがあります。「なんであんな人が教会にいるんだ。なんであんな人が聖職なんだ」。自分は素直に誠実に教会生活を送ろうとしてきた。そう思えば思うほど、赦しがたくなります。
放蕩息子の兄は真面目で正しい、模範的な良き息子です。親不孝者の弟が、父を死んだものとして財産を分捕って出ていき、娼婦らに金をつぎ込んでいる間も、兄はずっと父に従順に働いてきました。
しかしその弟が全財産をすって帰って来たとき、父は、家長の威厳を捨てて、家から走り出て来て弟を抱きしめ、最上級の仔牛を屠って大宴会を始めたのです。
兄は宴会の音楽や踊りを聞いて怒りました。それは正しいことです。「不公平だ!家族を捨てて出て行った人間をあなたは罰するどころか宴会までして歓迎する。自分には友だちとの宴会のために仔山羊一匹すらくれなかったのに、あいつには仔牛一頭をも与える。なぜ正しい私は報われず、あいつのような悪人が赦されるんですか!」
兄は怒りの故に父を「お父さん」と呼べず、弟を「あなたのあの息子」と呼んで不満を爆発させます。宴を祝う家に入ろうともしません。
すると父は、弟を見て家から走り出て来たのと同じように、怒る兄を見て家から走り出て来ます。そしてこう呼んで「懇願する」のです。
「息子よ、私の財産は既に全部お前のものじゃないか。お前の弟は遠くへ行って死んだも同然だったのに、生きて帰って来た。私とお前の弟は泣いて喜んでいる。どうかこの私の喜びを、一緒に喜んでくれ。一緒に宴会を祝ってくれ。」
父に懇願された兄はどうしたでしょうか。聖書には書いておらず、それは読者一人一人が兄弟姉妹に対する態度で答えることです。
神への帰還を祝う宴会、聖餐。父なる神はそこから出て来て私たちに懇願します。「自分の正しさを超えて、共に喜んでくれ。お前の弟が、妹が帰って来た。喜んでくれ。」
その声を聞くと相手を憎む自分の小さい視野が、慈しみに満ちた神さまのもっと大きな視野に広がっていきます。それが祝福です。
聖餐共同体としての教会。自分だけが恵みを受けるのではなく、兄弟姉妹が赦しと恵みを受けることを喜び合う教会になりましょう。
そして死から命への旅を共にしましょう。復活の祝宴に至るまで。
知っておられる 「神は誠実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」1コリント10・13
とても有名なこの聖句。「頑張れ! 耐えられる!」と励ますために使われますが、本当は人の忍耐力ではなく神の誠実を示しています。
ここでの試練は「自分は強い信仰者だ」と自負するコリントの信徒が遭遇する試練です。病気、死別、不仲、挫折…。強い信仰を持っていると思っていても、人は弱い者。「もう耐えられない、折れてしまう、壊れてしまう」と不安になります。
ある愛情豊かな女性が夫の不倫に苦しんでいました。「いつまでこのトンネルが続くのでしょうか」と言われて答えに窮し、ただ話を聴いて祈るばかりでした。長く苦しんだ後、ある日彼女は言いました。「先生、トンネルには必ず出口があるんですよね?」それには勇気をもって答えました。「必ずあるよ。」「私、そう信じて、もうちょっと頑張ってみます。」彼女は、見事に家庭を救いました。
「神は誠実な方」「逃れる道」。これは人間の忍耐力ではなく、神の誠実を示しています。神はご自分が誓われた救いの契約に誠実な、忠実な、信実な方。だからあなたが壊れる前に、必ず逃れる道、トンネルの出口を用意しておられる。
そして神の誠実はその知識を示しています。神さまはあなたの限界を知っておられる。限界を超えて苦しめることはない。だからあなたは耐えられる、と励ますのです。
イエスさまは自分の忍耐力で試練を耐えたのではありません。ただ父の誠実と知識を信じて自分を委ね、世の罪を除かれました。「父は必ず約束を果たしてくださる。限界を超えて壊れる前に、逃れる道を、トンネルの出口を用意しておられる。自分の限界を知っておられる。だから死は限界じゃない。死をも耐え超えることができる」そう信じて霊を委ねました。だからこそ死で壊れず復活という逃れる道が用意されていて、そこに入られたのです。
「父はあなたの限界を知っている。だから安心して、私と一緒に、耐えよう。父は知っているから。」
引き裂かれても 「その日、主はアブラムと契約を結んだ」 創世記15・17
2025年3月16日 大斎節第2主日
人に神の愛を伝えるとき、心を開かなければなりません。そこには弱さもあるので、ときにそれは心が裂かれる思いもします。命を懸けて、心を懸けてすることですから、自然なことです。
アブラムは神の約束について不安でした。神は子孫と土地を約束しましたが、平均寿命40歳の時代に、彼は75歳で子供はいません。しかもどの地にも定着できず、流浪の身です。この不安からアブラムは、神さまが約束を果たすことのしるしを求めました。「どのようにして知ることができるのですか。」
それに応えて神は契約の儀式を行ないました。当時人や部族が契約を結ぶ時、牛や羊を半分に切り裂き、その間を両者が通りました。「もし契約を破るのなら、こうなってもよい」と。強烈なしるしです。
ただしアブラムとの契約で切り裂かれた動物の間を通るのは、煙の炉と燃える松明で表された神さまだけです。「私は必ず約束を守る。自分の命に懸けて、たとえ切り裂かれても、必ず守る」という神の覚悟です。そしてその後、実際に子孫と土地をアブラムに与えました。
しかしそこで神の約束は終わらず、もっと多くの子孫と土地の約束が成就しました。それがイエスさまのうちに実現した「神の子どもたちと、全地に広がる神の国」です。
体が裂かれても、死をも厭わず、命を懸けて約束を守る。神さまの忠実がイエスさまの十字架に実現しました。神は私たちに命を与えて「み国の子ども」にするために、苦しみを厭わず人となり、罪を引き受け、十字架で引き裂かれました。そして復活して聖霊を送り、神の国を世界の果てまで広げられます。
「パン裂き」と呼ばれる聖餐の内にこの忠実な愛を見出しましょう。「自分は引き裂かれても良い。それでもいいから、あなたたちを私の子供にしたい、世界の果てまで共にいたい。」それほどの神さまの忠実と愛が、裂かれた体を表す「パン裂き」に現れるのです。
「どんなに不安で信じられなくても私は変わらない。必ず約束を守る。忠実でいる。体が引き裂かれても良い、命を与えて、あなたを神の国の子供として、守り続ける。」と。
体を裂く神さまの忠実を頼りに、死から命への旅を続けましょう。
2025年3月9日 大斎節第1主日
荒れ野での悪魔の誘惑は「疑い」の誘惑です。「自分は神に愛された神の子」であることを疑わせるのです。
私にとっての荒れ野は祈りや礼拝で神を体験しないときです。祈りが枯れ、礼拝がつまらなくなり、聖書に何も感じず、説教が苦痛になります。
そして悪魔の誘惑に負けると、人からの承認を求めるようになります。「先生よかったです。ありがとうございます」と言われて良い気分になるために力を尽くし始めます。
イエスさまにとっての誘惑の場は、最も人間的で生々しい40日間の断食後の凄まじい「飢え」でした。そこで悪魔は誘惑します。「もしもお前が神の子なら・・・」。
ここで試されているのは主イエスさまがパンを石に変える力を持っているかどうかだけではありません。「神の愛する子」であると信じられるかどうかです。自分の力で神の愛を証明するか、それともあえて何もせず、ただ父の愛を信じるか。自分の力を捨て、無力なまま、謙虚に、神の愛を信じ、神に忠実であり続けられるかどうか、です。
力づくではなく力を捨て、自分で自分を救わず、ただ「私は神に愛されている子だ」と信じて救いを待つ。この信頼の道は十字架へと続く道です。力を捨て、十字架の死に至るまで父を信頼し、謙虚であり続けることで、主は悪魔に勝たれました。そして神の愛を体中で感じる復活の命が開かれました。復活の命とは神を直接感じる礼拝のような命です。
イエスさまの戦いは、力を我がものにしようとしたアダムの罪を、神を試したイスラエルの罪を、神の愛を信じずに自力に頼る私たちの疑い深い失敗を、やり直すことです。疑いではなくて、神の愛への信頼をやり直すことです。そしてイエスさまの「やり直し」に結ばれて私たちは初めて忠実に神の愛を信じ、復活の命に与かります。
この大斎節、自分の力を捨て、まず「私は神さまに愛されている神の子どもだ」と信じましょう。同じように「私たちの大津聖マリア教会は神に愛されている教会だ」と信じましょう。すべての教会の活動はここから始まります。
花の枯れた荒れ野の祭壇から、主の声を聞こう。「悪魔が誘惑するとき、力を捨て、一緒に信じよう。私たちは神に愛された子供だ。」
「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け。」ルカ福音書9・35
大斎節前主日
信徒だったとき、福祉関係の仕事の疲れと、プライベートの問題とで人生に漕ぎ悩んでいました。それでも毎主日、疲れた体に鞭打って、辛い現実から逃げるように、教会へと続く石段を登りました。そうして聖餐式に参加すると、祈りの中で神さまに親しく触れる体験をします。そうして礼拝が終われば何かの力を得て、「下界」の現実は何も解決していないけれど、今度はイエスさまと共に、苦しい現実へと石段を降って行けました。人に仕えよう、という気持ちが少し湧きました。
礼拝体験、祈りの体験、主との親しい友情の交わりは、その心地よさに留まるためではなく、現実の苦しみへと降りていくためです。
今日のイエスさまの「変容」の箇所の直後に続くのは「悪霊に取りつかれた子を癒す」場面です。ラファエルの絵にも右下に救いを求める親子の姿があります。山の上で祈っておられるときに輝いた神の栄光は、山の下の現実の苦しみへと降っていくためでした。そこで人を愛して癒すための祈りでした。
もちろん現実から逃げて「祈りの栄光」にずっと留まりたい気持ちも分かります。ペトロは「この輝かしい山の上に祠を立ててここに留まりましょう」と提案しますが、神さまの暗雲に打ち消されます。残ったのは「これはわたしの子、これに聞け」という、これから人々の苦しみへと、山を降っていくイエスさまへの従順の命令です。「わたしの子のあとを付いて降って行け」と。
イエスさまが栄光に留まらず山を降っていくのは、その祈りが愛だからです。モーセとエリヤと語り合ったのは、私たちを愛し、私たちの罪と死を引き受けて死ぬ「最期」です。罪に苦しむ私たちと連帯して苦しみ、十字架で罪を赦し、聖霊と新しい命を与える、愛の祈りです。
イエスさまの祈りは人々の現実の苦しみ、痛み、悲しみ、理不尽さに降っていく祈りです。だから主の祈りを祈る私たち教会もまた、苦しい人間の現実へと降っていきます。主と共に降っていきます。自分だけではない。他者の苦しみの中に降っていくときにこそ、主イエスさまは共に降ってくださいます。
あなたの祈りの山の麓では、だれが苦しんでいるでしょうか。礼拝とは、その人を愛して、癒して、仕えるための神の栄光なのです。
礼拝体験に力づけられ、自分の苦しみの現実のなかに、そして他者の苦しみのなかに、主と共に降っていきましょう。「ハレルヤ、主と共にいきましょう!」
2025年2月23日 顕現後第7主日
「敵を愛せ」の「愛敵の教え」です。あなたにとって敵とは誰でしょうか。私にとっての敵は、小さいことなのですが、自分に濡れ衣を着せた人です。その敵を「愛せ、赦せ」というこの教え、イヤです。したくないし、できるはずもありません。
しかしこの「愛敵の教え」は先週の続きですから単純に「あなたが誰であろうとそうしなさい」という一般的な道徳ではありません。イエスさまが弟子たちに呼びかけた「もしあなたが私の弟子なら、自分について来い」という生き方への招きです。弟子と師匠の個人的な関係です。
今回この箇所を、イエスさまご自身の生き様として読むと、目頭が熱くなるものがありました。ここには愚かなほどに愛し続けるイエスさまがいます。弟子たちに教えた愛を、苦しみながら、自ら生き切ろうとされるイエスさまがいます。
イエスさまはご自分を憎む者に親切にし、悪口を言う者を祝福し、侮辱する者のために祈り、頬を打つものにはもう片方を向け、上着を取るものには下着をも拒まず、持ち物は奪われるがままにし、自分を愛さない人を愛し、罪人を愛し、何も当てにしないで貸し与え、恩を知らない者にも悪人にも情け深く、人を裁かずに赦し続けられました。
そして十字架の苦しみの中で「父よ、彼らをお赦しください」と赦しを祈られたのです。
愚かな愛、それがイエスさまの生き方でした。人の目には愚かに見える生き様で、イエスさまは神の愛を私たちに見せられました。そして私たちに呼びかけられます。私に付いて来い、と。「善いことをしなさい」ではなくて「私はこう生きる。私について来い」と。
長い年月を経て、私は私の敵を赦そうとしています。それは相手が赦されるべきだからではありません。今でもその人は悪い人だと思っています。しかし私が赦すのは、それがイエスさまの弟子として生きる道だからです。そう呼ばれたからです。
できるかどうかは二の次です。
せっかちに「できません」という前にイエスさまの愚かな愛を見つめましょう。世の罪を除いて赦す神の子羊を見つめましょう。私たちの愛の実践は、この与え続け、赦し続けておられるイエスさまから始まります。
「今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」 ルカ福音書 6・ 21
イエスさまの幸せについての教えです。貧困と飢え、悲しみと迫害にある人は幸せになる。逆に裕福で満腹で、笑っていて、皆から褒められる人は不幸せになると。
そしてイエスさまの幸せのリストの前で「私はどんな幸せ、または不幸せを受けるのか」と考えてしまいます。今ある程度幸せだから不幸せになるんだろうか。またはその逆で、不幸せだから幸せを受けるんだろうか、と。
しかし大切なのはこの教えは癒しを求める群衆を前に、主イエスさまが「弟子たちを見て言われた」ということです。群衆はこの世の人々を、弟子達は私たち教会を表しています。
ここで私たちはただの幸せの享受者ではありません。不幸せでも主イエスさまに従っていく弟子です。受け身ではなく能動的に主の道を選び取っていく主人公です。社会の現実描写ではなく、現実はそうであっても、今ここでの弟子としての生き方への呼びかけなのです。
今幸せでも、不幸せでも、それでも主イエスさまに付いていく。今貧しくて、飢えていて、悲しくて、泣いていても、それでも、泣きながらでも、主のあとについていく。「ついて来い」と主イエスさまが呼んでおられるのです。今は想像できなくても、私に付いてくるなら、必ず笑うようになるから、と。
そして私たち弟子の師匠はイエスさまです。何も持たずに私たちのために死んだイエスさまも貧しく、飢え、泣きながらでも、父のあとについていかれました。死んでいかれました。そうして復活という新しい命に笑い合う幸せを実現されました。この世のどんな幸せ/不幸せをも超える幸せ、神の国を実現されました。
詩編126編はこう歌います。「涙のうちに種まく人は、喜びのうちに刈り取る。種を手に涙を流して出て行く人は、束を抱え喜びに溢れて帰って来る。」これはイエスさまの姿であり、イエスさまのあとに付いていく私たちの姿です。どれだけ悲しみの家で心が沈んでいても、それでも主に付いて出て行き「涙のうちに種をまく」。「種を手に涙を流し」ていても、主について「出て行く」。現実を生きる。そうすれば、主は約束されます、「喜びのうちに刈り取る」、「束を抱え喜びに溢れて帰って来る!」
この世で幸せではないときこそ、聖餐式に来て、主の声に耳を澄ませ、主のあとに付いていこう。涙を流しながらでもいい、主の御体を食べ、御血を飲み、主のあとに付いて行こう。そうすれば必ず笑い合う日が来る。主と共に笑い合う日が。だから、泣きながらでもいい、主のあとについて行こう。
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