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2025年2月2日 被献日
今日は被献日にふさわしく、聖布を献げます。朝の琵琶湖のように優しく美しい刺繍です。祈りのこもったひと針ひと針に命が宿り、復活して今も生きておられる、イエスさまが現れる場となります。
聖公会では「奉献日」ではなく「被献日」と呼びます。献げる自分から、献げた自分の上に現れる神さまへと焦点が移っていきます。
マリアは聖霊によって救い主を妊娠・出産しました。だからこそ我が子の行く末を案じつつ、出エジプトでの犠牲を記念する「初子の奉献」のために神殿に参りました。
そこで待っていたシメオン翁は喜び溢れて言いました。「わたしはこの目で主の救いを見た!」 そして喜びだけではなく苦しみと痛みをも予言したのです。「あなた自身も剣で心を指し貫かれます」。
マリアは祈りを込めて我が子を神に献げ、大切に育てました。しかし彼は30歳になると「神の国運動」を始めて弟子をとったものの、3年後には裏切られて十字架刑で殺されました。マリアはシメオンの言葉を思い出しました。献げた我が子は、自分の思い描いた幸せではなく、人の苦しみを引き受けて死ぬという犠牲の初子になった・・・。一度献げたのだから、とマリアは自分の思いを捨て、神の思いを受け入れました。そして復活の命に輝く神である息子に出会ったのです。
主イエスさまも、祈りを込めてご自分を神に献げました。しかし献げた自分の命は自分に都合の良い用いられ方ではなく、十字架の上で刺し貫かれ、人々の罪を償うためでした。しかし一度献げたのだから、とゲッセマネの園で主はみ心を受け入れ、死んでいかれました。だからこそ、その生涯の上に神が働き、復活したのです。
信仰生活は聖布の奉献のようです。私たちは祈りを込めて自分を献げます。しかしその献げた自分は、神さまが自由に用いてご自分を現されます。それは、ときに思い描いた幸せではなく、「剣で心を刺し貫かれる」ような出来事のこともあります。しかし一度献げた人生です。取り下げることなく、迷いなく、神さまに使ってもらいましょう。そこに幸せがあります。主が現れます。
献げた人生に神がご自分を現し、それを感謝する幸せ。聖歌325番です。♪み手の中で、すべては変わる感謝に、わがゆく道に、現したまえ、あなたのみ手の業を♪
「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」 1コリ12・22
私たちは目で世界を見ます。映像、文字、顔と感情。そして頭で理解し、手と足で行動します。しかしだからと言って目と頭が、手と足を馬鹿にして「必要ない」と言えるわけがありません。行動するためには、より劣っているまたは弱いと見える部分が、かえって必要です。
教会は体のようなものだ、とパウロは分裂のあるコリント教会に説きました。富裕層でおごり高ぶる信徒と、貧困層で肩身の狭い信徒に分裂していたのです。キリストはすべての部分を、いや、より劣っていて弱く見える信徒をかえって必要としていると。
この「より弱いものへの愛」はパウロが主イエスさまから受けた心です。主イエスさまは、教会から見れば弱いどころか悪である迫害者の自分を憐み、愛し、福音の器として選ばれた。だから一見弱く悪く劣っているような存在こそが、主イエスの愛を伝える大切な部分なのだと。愛を伝えるために、より弱い部分が必要なのです。
イエスさまが愛を向けたのもまた「貧しい人、捕われている人、目の見えない人、圧迫されている人」でした。(ルカ4:18) 神の愛はまず弱いものへと注がれるものです。それは私たちです。
そして教会に色んな人がいるのは「互いに配慮するため」(12:25)。愛し合うためです。教会は愛の学校です。自分より劣っていて弱く見える人を愛することで、より一層キリストの体らしくなります。より神に与かり、より人間らしい人間になっていきます。そして人の苦しみを苦しみ、人の喜びを喜ぶことのできる人間になるのです。
主の食卓はひとつだけです。共に配慮しあい、主を賛美しましょう。「私たちは多くていも、一つの体です。」
「さぁ、それを汲んで持って行きなさい」ヨハネ2・8
2025年1月19日 顕現後第二主日
今日は大切な結婚披露宴。召使いらは多くの招待客に給仕していました。その中には主イエスさまのご一行もいます。
そこで大惨事が起きました。ぶどう酒が切れたのです。誰の責任か追及してもはじまりません。このままでは宴会は台無しになり、世話役にも花婿にも赤っ恥をかかせることになります。
そこで母マリアが願っても主イエスさまは何もしてくれません。それでも「イエスが何か言われればそれを信じて行うように」とのこと。
主イエスさまは大きな水がめを見ました。でもそれに奇跡でぶどう酒を満たしてはくれませんでした。そうではなく召使いたちに自ら働いて水を満たすように命じました。「これが何の役に立つのか」と思いつつ召使いたちは従いました。そして次は「さぁ、それを汲んで世話役のところへ持って行きなさい」と言うのです。
「あぁ、どうしよう。」水を持っていけば世話役はどれだけ怒るだろうか。でも他に手段はない。もうこうなれば、なんとかしてくださると主イエスさまを信じて、私の水を変えてください、と信じて持っていこう。
そう祈りつつ、かめから汲んだ水を運んだところ、世話役がそれを飲み、「上質のぶどう酒だ!」と喜んだのです。水がぶどう酒に変わっていたのです。
水が酒に変わったのは、召使いたちが恐れつつも信じて運んでいるあいだでした。何の根拠もないのに、主を信じて従い、運ばなければ、何も変わらなかったのです。
教会はこの召使いです。私たち自身は水のような価値の薄い存在であっても、主を信じて「自分を人に運ぶ」なら、主は私たちを恵み豊かなぶどう酒に変えてくださいます。自分たちだけでは役に立たない罪と死であった私たちを、十字架と復活によって新しい命に満ちた存在に変えます。そして人の喜びを満たす神のしるしにしてくださるのです。なんという喜びか。
病室訪問の前、私はこの召使いのような気持ちで祈ります。「神さま、私は何も持たず、ただ自分を今、病室のあの方へと運びます。どうか少しでもあの方の慰めと励ましとなるように、私の存在と私の祈りを良きものに変えてください。」どんなに価値がない自分でも、自分を変えてくださると信じて運ぶなら、主は必ず変えてくださいます。
聖餐式の奉献のように主が自分たちを変えてくださると信じて、自分たちを神に、愛する人に、そして愛すべき相手に、運びましょう。
2025年1月12日 降誕後第二主日
「あなたは私の愛する子。」 この喜びの言葉は詩篇第 2編から来ています。「あなたは私の子。私は今日、あなたを生んだ。」
イエスさまは洗礼を受け、祈りの中で父の愛とその使命に目覚めました。自覚しました。そして父の愛よって父の子として新しく生まれました。二度目のクリスマスとも言えます。イエスさまの意識のうちで、魂のうちで、新たに神の子が誕生したのです。そして十字架で自分の命を与えるという父の救いの使命を悟り、これからその救いを成就していかれます。
私たち、洗礼を受けた人は誰でも、本質的にではなく恵みによって、神の子です。ですが洗礼の恵みを深く祈るとき、私たちもイエスさまの洗礼の恵みに与かります。私たちの魂のうちに神の子が生まれます。「神の子の誕生」に目覚めます。そして新しく神の子が自分の魂のうちに生まれた喜びと愛と使命に生かされ始めます。
それは自分の魂のうちに生まれたキリストと共に父に祈り、父の愛を聴き、父の愛に目覚めることです。そして父に愛された神の子として日々、何度でも新しく生まれ続けることです。それまで父の愛を知らずに死んでいた魂の内に父との関係が生まれます。キリストと共に父との関係を生き始めるのです。
私は妊娠、出産したことがありませんが、それはマリアのようです。マリアは文字通り神の子を妊娠しました。宿しました。神の子キリストが自分の中に生まれ始めました。マリアは胎内の子と一緒になって神を賛美し、そして息子の愛の使命をも委ねました。マリアにとっては毎日が魂における神の子の誕生であり、毎日が神の命に新しく生まれる喜びの日なのです。
私もあなたもマリアです。神の子となった洗礼の恵みを祈るたびに、魂のうちに神の子が誕生します。そしていつも新しく父の愛を知り、人を愛し始めるのです。
毎朝、毎日、マリアのように、少しでもいいから祈り、主の祈りだけでも祈り、魂に神の子を生んでもらいましよう。そしてキリストと共に父の愛を聴き、父との愛の交わりのうちに一日を過ごしましょう。
そして、私たち教会もマリアです。魂に神の子が生まれる洗礼を共有する共同体です。一人一人の魂に神の子が日々生まれます。だから互いを日々喜び合い、日々赦し合い、日々敬い合いましょう。
「わたしは生まれる。あなたの魂のうちに、神の子として誕生する。わたしと一緒に生きよう。」
2025年1月5日 降誕後第二主日
クリスマスのその後の話です。「イエスさまは知恵が増した」とあります。知恵とは「神を知る知識」です。
イエスさまは私たちと全く同じ人間でありつつ、完全な神です。神には何の欠けもなく成長する必要もありませんから、成長したのはイエスさまの内の人間性です。人間としてのイエスさまが父なる神をより深く知るにつれて、神が徐々にイエスさまの内に現れ、イエスさまの人間性が限りなく神性に近づいていきます。
4世紀の主教アタナシオスは教えました。「神が人間となったのは、人間が神となるためである。」神と人は競合しません。イエスさまのうちに人間は100%人間でありつつ、神は100%神であることができます。神に与かれば与かるほど、人間は人間らしくなるのです。
イエスさまはご自分の祈りの人生で父のみ心を徐々に知り、その使命を実現していくことで、神がそのご生涯に現れていきました。そして十字架と復活と昇天という生涯を生き切って、イエスさまの人間性の内に神さまを知る知識が完全に現れたのです。それは人間のために自らの命を与える、愛です。
私たちは、信じてイエスさまに結ばれるとき、神を深く知ります。つまり、愛を知ります。イエスさまの生き方と死に方を通して、神さまがどれだけ私たち人間を救おうとしておられるか、どれだけ愛しておられるか知ります。
そして神さまの愛を知れば知るほど、私たちの人間性のうちに愛が現れます。そして愛に満ちた人間に変えられていきます。愛はもっとも人間らしい姿であり、最も神らしい姿です。神の似姿です。
私は、若いときは自分の人生で精一杯で、親の心を知ろうともしませんでした。反抗期には邪魔にしか感じませんでした。しかし大人になり、自ら親になるにつれ、両親を一人ずつの人間として知り、その愛をより深く知るようになりました。そして私自身も少しずつ人を愛するように変えられてきた気がします。愛の知識は人を変えます。
同じように、私たちがより深く神を知り、神の愛の知識が増すとき、私たちは愛の人に変わっていきます。この意味で人は神になっていきます。そして同時に最も人間らしい人間になっていくのです。
主が自らを与える愛の食卓に養われ、主のみ声を聞きましょう。
「私が神の知恵を増やそう。愛の知恵を増やそう。愛こそが人間を最も人間らしく、あなたを最もあなたらしくするのだから。」
賛美の使命 「わたしたちが召されて保つ使命を新たに悟り」 (祈祷書「新年の祈り」)
あけましておめでとうございます。お正月は原点回帰のチャンスです。日常の忙しい日々に置き忘れてきた、本来の自分に帰るチャンスです。
私たちクリスチャンにとってそれは「召された使命」です。クリスチャンはただの恵みの受給者だけではなく、使命を行う人です。使命とは命令されて行う苦しい義務ではなく、恵みに対する応答であり、喜んで行う務めです。人生の目的、やりがいです。
聖餐式の感謝聖別祷でも唱えます。「感謝と賛美は私たちの務めです」正しいこと(right)です。イエスさまの人生によって、私たちは神さまと結ばれました。救われました。だから感謝と賛美は、平日は忘れてしまいがちですが、本来の私たちの姿です。原点です。感謝と賛美に満ちることが、私たちの人生の目的であり、使命です。
クリスマスの羊飼いの生活は苦しいものでした。羊を野獣や強盗から守るために野宿をし、牧草を探して土地をまたいでは嫌がられ、宗教儀式を守れないために罪人とみなされる。最下層です。ですが天使に告げられ、飼い葉桶のイエスさまに会いに来ます。そしてその存在に触れ「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあります。(2:20) 賛美とは「神さま、あなたは素晴らしい」と喜ぶことです。
苦しい生活は変わらなかったでしょう。自分の内を見つめれば、賛美はなく嘆きだらけです。しかし「共にいて下さる神」が私の外に、飼い葉桶の中に確かにおられる。この救いへの賛美が全てを変えました。賛美することで、自分が変わるのです。喜びの人に。
賛美する、それは「素晴らしい」と告白することです。どんなことがあっても、どんな状態でも、神が人となって私たちと共にいてくださる救いを讃えることです。「それでも人生は素晴らしい。神さま、あなたは素晴らしい」と言うことです。
これが教会に来る私たちの使命、務め、喜びです。個人の生活で何があっても、教会に来て「いと高き所には神に栄光」と歌い、聖餐のイエスさまに確かに触れ、「素晴らしい」と賛美し、「神をあがめ、賛美しながら」生活と人間関係に帰る。そして誰も見ていないところで「苦しい。それでも私の人生は素晴らしい。あなたが共にいてくださるから」と賛美するのです。
それでも賛美できない時は十字架のイエスさまに頼りましょう。「賛美からは程遠く、神に見放されたイエスさま、どうか賛美のない私の心と共にいてください。」そしてイエスさまと共に耐えましょう。そうすれば必ず来ます。賛美の時が。
神を賛美する羊飼いと共に、賛美の一年を始めましょう。
2024年12月25日 降誕日 聖餐式
神が人となった。この神秘をヨハネ福音書は「幕屋を張られた」と表現します。14節「私たちの間に宿られた」の原語です。
主によって奴隷の家から導き出された古代イスラエルの民は40年荒れ野を徨いました。そのあいだ主は「幕屋」と呼ばれるテントを人間に張らせてその中で民と共に居て、導き続けてくださいました。「主の栄光が幕屋に満ちていた。」(出40・45) 栄光とは神の存在感、臨在の表現です。
この幕屋がソロモンの時代に動かない神殿となりました。「主の栄光が主の神殿に満ちた。」(王上8・11)以来神の民にとって神殿とは神が自分たちの王国を愛し共に居てくださることの目に見える徴でした。そして天と地が重なる神殿は、神に出会い、赦され、感謝し、変えられる聖なる場所、聖所でした。
ヨハネが宣言します。「天地を創造した言としての神」は人間となり「私たちの間に幕屋を張られた。」つまりイエスさまというお人が真の幕屋なのです。イエスさまという100%人間であるお人とご生涯のうちに神は幕屋を張り、神の臨在の100%が現れた。神と人は競合せず、神は人を完成させます。私たちは「その栄光を見た」。(1・14)
その栄光とは、神に忠実に、十字架上で自らを与えた愛です。神さまの幕屋である人間イエスさまが、神と人を完全に愛して死んだ時、愛する存在としての人間は完成され、神の臨在が完全に現れました。復活の命が与えられました。神が人間となって世に幕屋を張ると、神が人間のなかで働いて、人間は愛によって完成します。人は神の幕屋になりうるのです。
愛に満ちた存在がその場に来れば、人間関係は明るくなり、愛が芽吹きます。私の親族でそれは母です。彼女が来て笑えば、無口になりがちな男どもも「ぱぁっ」と明るくなります。愛が芽吹きます。人は愛の幕屋になりうるのです。
そしてイエスさまを信じてご聖体を頂く私たちも、イエスさまという神の幕屋の一部になります。神が私たちの内に臨在し、内側で働き、愛人間を完成させます。
十字架の幕屋に満ちる神の栄光に満たされ、愛を知らず、希望を知らず、祈りを知らない世界と人間関係に神の幕屋を張りましょう。
「権力を振るう者をその座から下ろし、身分の低い人を引き上げ」ルカ福音書1章51節
悪しき支配者を追放し、圧迫された民衆が国を治める。そんな新しい支配を目指すのが革命です。レーニンも、チェゲバラも、天安門事件も、日本の学生運動もそうだったのではないでしょうか。
そういう意味で主の祈りが祈る「み国(神の支配)」は、神の愛の革命です。クリスマスは革命の始まりを祝う祭りなのです。
ただし神の革命を始めるのは偉大な将軍ではなく、マリアという14歳で妊娠した少女です。人々からは「姦淫」と断罪され、居場所なく親戚のエリサベトの所へ逃げてきた。しかし弱い存在ながら胎内の小さな命を必死に守る少女です。
このマリアが神の革命を歌います。「主はみ腕の力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力を振るう者をその座から下ろし、身分の低い人を引き上げ…。」これは誰でしょうか。大統領、政治家、軍人、金持ち、悪質業者、子供に対する親や大人、女に対する男、嫁に対する姑、病人に対する健常者、少数者に対する多数者…。弱い者を力で傷つける者です。
人の弱さに付けこむ者に対して、マリアの胎から生まれる神は革命を起こし、遂行し、完成させます。力を振るう者に審きを降し、弱くされた人を引き上げます。
この革命は「弱さの中から」始まります。それは身重の少女の弱さであり、マリアから生まれたイエスの十字架上で裸で死んでいく弱さです。神は全く弱くなって悪を受けることで悪を滅ぼし、新しい命で支配し始めました。それもこれも神が私たちを愛しているからです。
愛の力に支配される時、強がる心は打ち散らされます。引きずり下ろされます。自分と人の弱さを優しく受け容れ始めます。そして力を振るう者に対しては強く戦う者に変えられます。神に支配されて変えられる。それが救いです。
私は、人生半ばの働き盛りにあって、全く自信を失ってしまいました。それまでは自信満々で働き、人に接していました。そんな自分は神さまに打ち散らされ、引きずり下ろされた気がしました。祈りのなかで聞こえてきたのは「自信なく、弱いお前にしか聞こえない福音を聞き取りなさい。私はそんなお前を愛している、と。」そして神さまに引き上げられるような気がします。
このクリスマス、ぜひ祈りましょう。少女から始まったクリスマスの革命が、十字架の愛の革命が、社会に、私たちに成就しますように。
「私は革命を起こす。愛の力で。弱さの中から。」
2024年12月15日 降臨節第3主日 聖餐式
洗礼者ヨハネを取り囲んだ群衆もそうでした。「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」が欲しい。しかしその具体的な行いが分からない。だから尋ねました。「私たちはどうすればよいのですか。」今日の箇所にはこの問いが三度表れます。
洗礼者は具体的に答えました。群衆は下着と食べ物を分かち合え。徴税人は公正に徴収せよ。そして兵士は給料に満足せよ。
お金に関しての指示を実践することは厳しいことです。しかし指示を得た人々は嬉しかったのではないでしょうか。「難しい。でも具体的にやるべきことが分かった。」
そして日常生活の中で、これらの具体的な指示を実践していった人は変わっていきます。ケチで、不正で、不満足な人間から、慈しみ深く、公正で、充足した人間に変わります。神性にあずかります。
クリスマスは、子なる神が具体的な一人のユダヤ人として生まれ、父の具体的な指示が実現し始めた日です。「神の国は近づいた!」
イエスさまは具体的な指示を祈り求めました。荒れ野で、朝に晩に、徹夜で、変容の山で、最後の晩餐で、ゲッセマネで、「父よ、私はどうしたらよいのですか」と。そして命を与えるほどに弟子を愛し抜きました。その生涯が私たちへの具体的な指示であり、具体性の恵みです。私たちはその生涯を実践するイエスさまの弟子なのです。
答えは具体的なイエスさまの生き方です。だから問うのは「イエスさま、この状況で、どうすることがあなたの生き方ですか」です。
米国ではWWJD(What would Jesus do、イエスさまならどうする)という標語の入ったブレスレットがあります。以前の私は「そんなに簡単に分かるはずがない」と批判的でしたが今は違います。小さい日常の中で、復活のイエスさまと個人的な関係を結び、その生き方を少しでも真似ていくこと。それが弟子としての自分の生き方だと。
もちろん具体的な指示が与えられないことの方が多いです。しかしそれでも諦めない。行動の後から示されることもある。静かに待つ。聖書の神は具体的な指示を与えて下さる「言葉」の神です。自分が実践すべきイエスさまの生き方を。
具体的な聖書の言葉を通して語り掛ける神の声を聴きましょう。「祈り求めなさい。具体的に何をすればよいか、必ず私が示すから。」
2024年12月8日 降臨節第2主日 聖餐式
エジプトの奴隷の家から導き出されて以来ずっと神の民は、主を愛さず、礼拝せず、律法を守らず、預言者の声を無視して社会的弱者を虐げていました。
その罪の結果、イエスさまの600年ほど前、国はバビロニア帝国に滅ぼされ、神殿も宝物も破壊され、奪われ、殺され、残された者は荒れ野の果ての異教徒の都バビロンに強制連行されていきました。そこで「もう赦されない。神に見放された」と思い、悔いていました。
しかし50年経ったとき、預言者バビロンのイザヤは叫びました。「罪は赦された、主が私たちを連れ帰ってくださる!」なんという喜びの知らせか。もう赦してもらえないと思っていた罪が赦され、故郷に帰れるのです。そのイメージが荒れ野、砂漠に真っすぐ通る道です。「その道筋をまっすぐにせよ。」
卑近な例ですが家族でも同じです。過ちを犯したとき「もう赦されない」と勝手に思い込まず、赦しがあると信じて謝れば、相手は赦してくれる(かもしれない)のです。心を低めて「ごめん」と言えば「もういいよ」と。そして赦しの道が驕り高ぶった心にまっすぐ通り、以前の親密さに連れ帰ってくれるのです。
「罪の赦し…主の道筋を整えその道筋をまっすぐにせよ。」洗礼者ヨハネの宣言を聞いた人々は、まっすぐに罪の赦しを信じて喜び、暗い心に赦しの道を通しました。
罪の赦しは信じるものです。イエスの赦しはバビロンからの解放よりもっと根本的な、罪からの解放であり、死から命への帰還です。
これを信じる根拠が十字架です。私たちを赦すために人となり、私たちの罪を負って十字架で死に、罪を消し始めた史実です。
この史実を基にして赦されないような罪の赦しを確信し、疑わず、まっすぐに赦しの道を心の荒れ野に走らせましょう。自己肯定感の低い「谷」は神の愛で埋めて頂き、驕り高ぶる「山と丘」はすべて低くめ、歪んだ心は「真っ直ぐ」にし、邪魔なエゴは平らにし、赦しの道、喜びの道に貫いてもらいましょう。赦しの主に連れ帰ってもらいましょう。
そして今度は自分も人を赦して、その人の赦しの道になるのです。驕り高ぶりを低め、心をまっすぐにし、喜びの道になるのです。「もういいよ。」「神さまはあなたを赦された。」そこを赦しの主が走り、神へと連れ帰って下さいます。
赦しの御血を飲み、赦されえない罪の赦しを信じ、心に赦しの道を通し、喜ぼう。「罪の赦しを得させるようにと、あなたがたのために与える私の新しい契約の血」。
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