説教・聖書メッセージ「みちことば」

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説教・聖書メッセージ「みちことば」 episodes

  • 共に呻く

    「天を仰いで呻き」 マルコ福音書7:34

    2024年9月8日降臨節第16主日(特定18)


    癒しの物語はときに遠く感じられます。「私には奇跡は起こらないから関係ない」。しかしそれは聖書を自分中心に読むことです。

    神さま中心に読んでみると、聖書全体は創造の物語です。創造の喜びから、罪と死の苦しみ、しかし神の民とメシアを通して来る新しい創造の物語です。

    そして私たちの時代は「終わりの始まり、新しい創造」の時代です。イエスさまの死と復活を通して神の支配が世界におよび、神が死に勝ち、世界が新しい命に再創造される時代です。奇跡とはこの新しい支配の表れです。病院では数々の奇跡が日夜起こっています。

    そしてここでイエスさま、口が利かない人を癒す直前に「天を仰いで深く息をついた。」新しい翻訳では「呻いた」とあります。癒されたこの人の気持ちでもあり、私たちすべての呻きを集約した呻きです。 

    癒されたい、苦しみから解放されたい、赦されたい、もう一度会いたい、変わりたい。私たち人間の呻きをイエスさまが共に呻いてくださる。そして復活によって呻きを成就してくださる。これは世界全体の呻きでもあります。(ロマ8・22)

     イエスさまの呻き、それが聖霊です。「霊自らが言葉に表せない呻きをもって執り成して下さる。」(ロマ8・26)言葉にできないような苦しみのなかでも、主イエスさまは私たちの内で共に呻いてくださる。神が共に呻いてくださる。何という安心、何という喜びでしょうか。

    思い起こすのは、妻が出産時に呻いていたとき、私はただ背中をさすってあとはただ共に呻くぐらいでした。みなさんも、大切な人が出産や病気で苦しんでいるときは、背中をさすったりして、共に呻いてあげるでしょう。「うーん、しんどいなぁ、うーん。」イエスさまはそのようにしてくださいます。

     イエスさまが十字架で苦しみ嘆いた姿、それは私たちの呻きを共に呻いた姿です。神の呻きです。その呻きによって復活が起こり、新しい創造が始まりました。

     代祷でイエスさまは私たちの真中で共に呻いておられます。その呻きを成就し始められます。そして願われます。あなたたちもまた人と共に呻く者になって欲しいと。

     「うーん。しんどいなぁ。うーん。」

    21 min
  • 肉体の近さの喜び

    「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは」 ヨハネ福音書6章56節

    これは聖餐についての教えですが、「わたしの肉を食べ、血を飲む」という表現はドキリとします。もちろん文字通りのこの世的な肉を食べ、血を飲めと言うのではありません。その点では「霊的」に食べるのです。


    しかし、だからといってパンを食べてぶどう酒を飲むのはただ「イエスさまを思い出しなさい」ということではありません。パンとぶどう酒は本当にそこにおられるイエスさまの存在です。肉体です。肉です。


    聖書の「肉」には良い意味と悪い意味があります。パウロでは悪い意味で「この世の罪と死の力」です。しかしヨハネ福音書では良い意味で「人間に与えられた、神を表す道具、しるし、器」です。


    神は人間が肉体を持つ存在であることを大切にして、愛して、自ら「肉となって私たちの間に宿られた。」(ヨハネ1:14)受肉された。私たちと同じ肉体を持ち、私たちと一体になり、しかも罪と死をその肉体に受けて死なれた。そして復活して、肉体を含む新しい命をくださるのです。キリストの救いは肉体を通して成し遂げられ、伝えられます。


    これは喜びです。神は遠い「天国」にいるのではなく、私たちの肉体の近さに来て下さる。居て下さる。一つになって下さる。肉体を通してキリストは私たちの内に宿り、私たちはキリストの内にいます。


    例えるなら赤ちゃんへのスキンシップのようなものです。抱っこして、口づけして、オムツを替えて、「たかいたかい」して、ご飯を口に入れて・・・私たちの多くは親にそうしてもらって愛を感じたはずです。神さまも肉体を通して、その愛を人間に感じさせてあげたいのです。


    肉体の近さの喜び、身体性の神秘、これが現れるのが聖餐です。パンとブドウ酒を口で頂く近さに神は来られる。そして間接的に、そのパンとぶどう酒が消化されて変わっていく私たちの肉体の隅々に至るまで、神は近くにいてくださる。


    だからこそ私たちも、人をその体を通して愛したいものです。微笑み、体を気遣い、行動をもって、神さまの愛を伝えたいものです。


    聖餐のうちに、私たちに最も近い神の声を聞しょう。「わたしは近くにいる。あなたの指、口、喉、お腹、体の隅々に渡るまで近くに。」

    14 min
  • 共に生きる復活

    「わたしがその人を終わりの日に復活させる」ヨハネ6:40

     2024年8月11日 聖霊降臨後第12主日(特14)


    死んだらどうなるの? 一体どんなふうに体が復活するの? 躓きやすい復活信仰を、今日の箇所は一筋の光で照らします。 「わたしがその人を終わりの日に復活させる。」ここではイエスさまご自身が、人を復活させます。人の体が復活する、というだけではなく「イエスさまが」復活させる。ということはつまり、復活したらまず、目の前にはイエスさまがいらっしゃるのです。この壁画のように墓から復活する人間(アダム)はイエスさまに手を引かれているのです。私たちはつい自分たちはどうなるのか、と自分中心に考えてしまいます。ちょうど、自分たちの腹を満たしたかった荒野の先祖や、5千人の養いでの弟子たちのようにです。しかし大切なのは、誰が、どのお方が、どの人格が私たちを生かしてくれるのか、です。復活の命、そして復活の先取りとして今ここで部分的に与かる永遠の命とは、非人格的な「もの」ではなく、イエスさまとの関係です。復活とはイエスさま、永遠の命もまたイエスさま、というご人格です。「人はパンのみではなく神の口から出る言葉によって生きる」(申8:3)この「言」がイエスさまです。「はじめに言は神と共にあった。」(ヨハネ1:1) 私たちは「もの」としての言葉ではなく、「人」としての言、つまり神の分身、第二のご自身、イエス様によって生かされます。イエスさまの命もまた、自分で勝手に与えられて生きている命ではなく、父なる神との関係です。生きている、ということは誰かと関係している、ということなのです。(だからこそ、孤独の中におられる方々はとても苦しく、悲しいのです。)ちょうど愛する人との時間はずっと終わらないでほしい、と願うようなものです。それが永遠の命です。永遠ということの幸せです。死後のこと、復活のことはよく分かりません。しかし確信を持ちましょう。どんな暗闇も、主が共にいてくださるから、通り抜けていけるのです。私たちは主が共にいてくださるから、死を超えていくのです。主が共にいる、それが復活です。ハレルヤ、主と共に行きましょう!


    16 min
  • 飢えを満たす

    「決して飢えることがない」 ヨハネ6・24

    神は飢えを満たす存在です。出エジプトの荒れ野では天のマナで民を養われました。「5千人の養い」ではイエスさまが飢えた人々を満腹にされました。爆弾ではなくて命を降らせて養う存在です。原爆で焼かれた人たちはどれだけ命に飢えたことか。どれだけ「生きたい」と願われたことか。私たちは「命を養う」神の思いに従うのです。

    私たち人間は皆それぞれ、幸せに飢える存在です。本当の幸せとは何でしょうか。金銭的な安心、健康、承認、愛の人間関係、美しい景色や感動。それらの恵みは、飢えを満たす神さまの存在を示しています。だから神さまとの関係なしには、恵みはただの「もの」です。

    人の心は「恵み」という「もの」に留まっていてその与え主なる神に達しない時、本当の飢えは満たされません。どれだけ恵まれていても、「もっと欲しい、ずっと欲しい」という欲望や、虚しさが襲います。

    それは、私自身の中にもありますが、「感動中毒」ならぬ「恵み中毒」、「恵みの消費主義」です。それではいつまでたっても満たされないのです。

    それは人間は本来、恵みを通して、神ご自身に飢えるように造られているからです。聖アウグスティヌス(†430)は言いました。「主よ、あなたの内に安らぐまでわたしは休まりません。」神ご自身に満たされるまではどんなに恵まれていても本当の飢えは満たされない。神ご自身の存在が本当の幸せなのです。

    だから主イエスさまは「わたしが、命のパンだ」と言われました。(35節) 「命のパン」は恵みという「もの」ではなくイエスさまご自身です。人格です。生きた交わりです。私たちと同じ人間となって苦しみを受けて復活したお方が、私たちの心の内にいて私たちと交わってくださる。神ご自身の存在が私たちの本当の飢えを満たしてくださる。神もまた私たちに、恵みにだけではなく、ご自身に飢え渇いて欲しいのです。

    それはちょうど大切な人との関係にあって、相手から得た何かの「もの」が幸せなのではなく、相手との関係、相手の存在、人格そのものが幸せであるようなものです。結婚指輪のようなものです。

    イエスさまもまた、ただただ父に飢え渇きました。そして父の存在に満たされて十字架へと向かわれました。父に満たされていたならば、一切の他の恵みはいらなかったのです。ただ心のうちに父がいてくれること、それがイエスさまにとっての本当の幸せなのです。そして十字架で言われました。「渇く」。

    聖餐で、私たちの飢えを満たす神さまのご人格と交わりましょう。

    「あなたの飢えはわたしが満たす。だからわたしに飢え渇きなさい。わたしがあなたを満たす。」


    19 min
  • 死霊がイエスに

    「安心しなさい。わたしだ。 恐れることはない。」 マルコ福音書6:50

    2024年7月28日 聖霊降臨後第10主日(特12)

    イエスさまが海(湖)の上を歩く場面です。海は死の象徴であり、海の上を歩く姿は、死に打ち 勝つ姿です。それは出エジプトで、民に死の海を歩かせて命の地へと導いた、主なる神の姿です。

    しかし逆風に漕ぎ悩む弟子たちにとって、海の上を歩いて来るイエスさまは幽霊、死霊に見えました。 そして怯えて叫びました。「幽霊だ。死んでしまう。怖い!」 私たちが恐れるもの、それはなんでしょうか。教会にとってはそれは高齢化の先の未来かもしれません。私自身にとっては病気の再発です。

    弟子たちがイエスさまを認識できなかったのは、イエスさまは出エジプトの神だと知なかったからです。死から命へと導く神だと知らなかったからです。新しい出エジ プトである十字架と復活を知らなかったからです。とくに、復活の喜びは十字架の苦しみのすぐあとに 来るという真実を知らなかったのです。

    私たちもまた、人生の逆風に漕ぎ悩むとき、イエスさまが幽霊に見えます。死の恐怖、苦しみ、または他の様々な不安と心配に怯えます。目の前にいるのは実は死に勝ったイエスさまなのに、救いが目の前に近づいたのに、目は遮られていて、恐怖の幽霊しか見えません。

    しかしイエスさまはもう一歩こちら側に進んで来られて、必ずご自分を明かしてくださいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」「あなたの目の前の恐怖、そ のすぐ向こう側に私は既に来ている。死に勝った私が、ここにいる!」

    心を静かにしてイエスさまの声を聞くことができたならば、目の前の幽霊は消え、主イエスさまが現れます。そして主は私たちの人生の船に乗り込み、逆風は静まります。怯え恐れるときにこそ、私たちは実はイエ スさまに出会っているのです。十字架 の苦しみのすぐ向こう側に、復活の主は既に来られているのです。

    私が学生時代に洗礼を受けたと き、病気も挫折も悩みもあり、逆風に漕ぎ悩んでいました。生きる望みなく、幽霊に取り憑かれたような時でした。しかしその時に受けた洗礼の恵みが、将来私を救うことになり、今も自分を導いています。幽霊がイエスさまに変わりました。だから今は、苦しみはきっとイエスさまの恵みに変わるだろうと信じていま す。皆さまにも、苦しみが救いに変わった体験、幽霊がイエスさまに変わった体験があるのではないでしょうか。

    出エジプトの神、復活のイエスさ まの声を聞きましょう。死霊がイエスさまに変わります。そして死から命への過越の食事を祝いましょう。

    「私は恐怖のすぐ向こう側に来ている。安心しなさい、幽霊ではない。わたしだ。恐れることはない。」

    17 min
  • 受けとってくださる

    「イエスは五つのパンと二匹の魚をとり」マルコ6・40

    2024年7月21日 聖霊降臨後第9主日(特11)

    愛する人の死を悲しむ方の前で、私は無力感を感じます。しかしそれでも「祈ることなら」と乏しい言葉を絞り出して祈ります。献げます。神さまは限りある祈りを受けとって、限りない慈しみでこの人を養って下さる、そう信じます。


    「5千人の養い」は旧約聖書の再来です。荒野でマナを降らせた神、羊たちを青草の野で養う詩編23編の羊飼いとしての神です。


    ただしイエスさまが違うのは人のものを受け取って用いる点です。弟子たちは何万人もの人を前に「養うのは無理だ」と諦めます。しかしイエスさまは問います。「パンは幾つあるのか。」弟子らは食糧をかき集めて答えます。「パンが5つと魚が2匹です」。「けれども何の役にも立たないでしょう。」(ヨハネ5) しかしイエスさまに従って、限られた糧を渡します。諦め、不満な自分自身を献げます。委ねます。


    するとイエスさまは聖餐式のように5つのパンと2匹の魚を受け取り、祈り、裂いて配らせました。すると何万人が満腹したのです。弟子たちは驚き、喜びました。限られた自分たちのものを神は受け取り、無限の養いに変えられた。この神さまを体験するのが聖餐式です。


    過小評価しなくても良いのです。「こんな自分は役に立たない」と言わず、自分に不満を持たず、諦めず、ただ誠実に自分を神に献げればよいのです。献げることが奇跡をもたらすのです。そうすれば神は私たちの人生を賛美して祝福して用いてくださいます。弱さも罪も限りもある私たちを用いて、無限の養いを現されます。


    それが有限の人間性を受け取られた受肉の神、み言、キリストです。イエスさまの内に、神に受け取られた私たちの人間性は神と一つとなり、十字架と復活を通して変えられ、無限の命になります。限りない命、永遠の命の養いの一部となって人を養うことができるのです。


    あなたが献げるパンと魚は何でしょうか。祈り、献金、奉仕、愛、微笑み、声かけ・・・私たちの限られたパンと魚は、神に受け取られ、無限に人を養う器となります。


    聖餐式の奉献でパンとワインという労働の実りを献げるように、私たちも自分を過小評価せず、神さまに献げましょう。そうすれば神は私たちを受け取り、私たちは人を養う無限の恵みの器になります。


    「こんな自分なんて、と言ってはならない。あなたのパンと魚を私に献げなさい。私はあなたを受け取り用いて、限りない命で人を養う。」


    18 min
  • 知らない神

    「マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。」 マルコ福音書6:3


     私たちは関係が近ければ近いほど「あの人のことは知っている」と思い込み、その人の知らない面を見過ごします。近い人は、その弱さまでよく見えるからです。家族、兄弟姉妹、同僚、幼馴染、同級生。 

    イエスさまが里帰りしたとき、故郷の人は拒絶しました。「神の子と言われているそうだが俺たちは昔から知っている。こいつが神の子なんてふざけるな。マリアの息子、ヤコブの兄弟じゃないか」と。 そこには「あんな奴のうちに神がいるはずない」という嫉妬があり、また「神について私は十分に知っている」という高慢もありました。 

    しかし神さまは私たちが知るところを遥かに超えて、私たちの近くに、弱さの中に来られました。同じ村のマリアの息子、ヤコブの兄弟という近い存在のうちに来られました。それは私たちと同じ「死」を死ぬほどに近く、弱く来られました。 

    そして「神の国は近づいた」と言いつつ、反乱を起こすどころか、当時はあまりにも日常的な風景だった反逆罪の十字架刑に処されました。「神の子がこんな死に方をするはずがない」という弱々しい姿。誰も神の子が人の弱さを引き受けて死ぬ救いを知りませんでした。 

    しかし復活によってこの弱々しい人が神ご自身だと示されました。その弱さは死に勝つ命でした。神さまは弱さのうちに隠れて来られた。それを悟ったマリアとヤコブはイエスを神の子だと信じ、復活後の教会の中心となりました。「家族の近さで神は私たちのところに来られた。私は知っている。私の兄は、実は神だった!!」と。   

    そして私たちの嫉妬と高慢を神さまは赦し、「隠れた道」ヘ呼ばれます。神さまが隠れている身近な人、弱い人、日常生活で出会う人を通して、神を地味に愛する道へ。 

    みなさんにとっては誰でしょう。私にとってはまずは妻です。弱さや欠点を多く知っています。でも彼女が祈るときには、隠れていたイエスさまが彼女の中に現れます。目が開かれます。弱い彼女を通して、私はイエスさまに接し、イエスさまは私に接しているのです。

    最も近くて、弱さを知っている人の中から主は語りかけられます。 「私はあなたの知らない神。最も近く、弱さが目に付く人の中にいる。それは十字架のような弱さだ。思い上がりを捨て、私を愛しなさい。近くて弱い人の中で、あなたは私に接しているんだよ。」

    14 min
  • 悲しんだまま、限界を超えて

    「恐れることはない。 ただ信じなさい」 マルコ5:36

    2024年6月30日 聖霊降臨後第6主日(特8)聖餐式


    もし自分の娘が、12歳の若さで命尽きようとしているなら…。どれだけ悲しいでしょうか。どれだけ必死になるでしょうか。 

     ヤイロは会堂長として街の有力者であり、権力も財力もありました。そんなヤイロが田舎から来た癒し人の前に、なんの威厳もなくひれ伏して願うのです。「どうか娘に手を置いて、癒してください!」と。

     その必死さに応えてイエスさまは家に向かいます。しかしその途上、ほかの人を癒している間に知らせが来ます。「娘さんは死にました。」ヤイロは悔しがり、恨み、絶望し、悲しみの淵に落ちました。もう何の望みもない。死んでしまったのだから。

     しかしイエスさまはここでヤイロに言います。「恐れることはない。ただ、信じなさい。」娘が死んでしまった今、何を信じろと言うのでしょうか。良い葬式をすると言うのか、それとも、もう一人の娘を授けるというのか。信じる内容がわかりません。理解を超えています。

     ただ彼は、悲しみはそのままにして、自分の限界を超えて、イエスさまに頼りました。信仰とは、限界を越えることです。感情と理解の限界をこえて、主イエスさまに頼ることです。

     そうすると主は「娘はただ眠っているだけだ」と言い「タリタクム」と娘の手をとって生き返らせたのです。限界を超えて現れたのは復活の命でした。

     主は悲しむヤイロに「悲しむな」とは言いませんでした。「恐れることはない、ただ信じなさい」と言いました。悲しみはそのままにして、理解できない未来もそのままにして、それでも限界を超えてご自分を信じなさい。限界を超えて、復活の命へと導くから、と。


     Aさんの晩年は愛する息子さんに先立たれ、死別の悲しみにありました。深い信仰者でしたが、限界にありました。どれだけ辛かったか。ご主人によりますと、最期も悲しみのうちに亡くなられた、と言います。他の人も「かわいそうだ」と言います。でも私は思います。主はその限界でAさんに呼びかけられたのではないか。「恐れることはない、ただ信じなさい。」そしてAさんは悲しんだまま、それでも限界を超えて主に頼って生活しておられた。そうして限界を超えて信じて死んでいかれた。そして死を越える復活の命へと導かれた。愛する息子さんたちとの再会へと導かれた。私はそう信じています。

     悲しみはそのままにして、受け入れて、それでも限界を超えて主を信じる。そうすれば、想像をはるかに超えて、復活の命に導かれていく。


     思えばイエスさまこそ、見捨てられて拷問されて殺されるという悲しみの限界にあって、父に頼りました。この杯を取り除いてください、しかしあなたのみこころがなりますように、と。そして限界をこえて復活させられたのです。悲しみの限界を知っているイエスさまが呼びかけておられるのです。

     悲しみの限界での「ただ信じなさい。」こう言われる方を信頼しましょう。悲しんだままでいい。復活の主イエスさまに、自分を任せましょう。


     私自身、実際に自分の子が死んでしまったら、そうできるかどうか、、、。でもだからこそ、その時には、復活のイエスさまがこう呼びかけておられることを忘れずにいたいと思います。

     「恐れることはない。ただ私を信じなさい。悲しんだままでいい。限界を超えて私に頼りなさい。あとは私が復活の命まで導くから。」

    20 min
  • イエスさま、起きてください

    「私たちがおぼれてもかまわないのですか」

    マルコ福音書4章38節

    2024年6月23日 聖霊降臨後第5主日(特7)

    ♪♪あらしのひ、なみたけるうみで、でしたちをさとされた、ちからのみことばを私にもきかせてください♪♪


    イエスさまが叱ると嵐が静まった場面です。ただしこの場面はたまたま奇跡が起こった。というものではありません。そうではなく、イエスさまは、ヨブ記が語る、偉大な力にみなぎる創造主だ、という意味です。その力は全世界と全ての命を創造した力、混沌と死をも支配する力です。死人のうちから甦った、復活の命の力です。


    この偉大な創造主を乗せている船、それが教会です。


    しかし現実の教会はローマ帝国による迫害の嵐にさらされ、64年に殉教したペトロとパウロなど、実際に殺された信徒もいて、死の恐怖に怯え、溺れかけていました。イエスさまは起きているのか。


    私たちも、命の創造主を乗せている教会の信徒であるにも関わらず、死を前にして沈みそうになります。老いの逆風に悩まされ、死に至る病いの波に叩きつけられ、暗闇の中で死が最後だと絶望し、死別の悲しみの涙に沈みそうになります。


    そのような死の嵐で心が溺れそうなとき、イエスさまは船尾で「枕をして眠って」おられるように思われます。それは神が力を失ったということではなく、人がそこまで真剣に祈ってこなかった、ということです。眠っているのは神ではなくて、神と人の祈りの関係です。


    そんな時は、聖書が薦めます、「うるさく」祈ってイエスさまを「起こしなさい」と。「先生、私たちがおぼれても構わないのですか。イエスさま起きてください。助けてください !」


    そうすればイエスさまは必ず起きてくださいます。死んだように思えていても必ず起き上がってくたさいます。復活してくださいます。そして祈りを聞いてくださいます。そして全世界の命を創造した力、十字架の苦しみによって死の力に打ち勝った復活の力で言われる「黙れ、静まれ」の言葉は全地に響き、死の嵐は治められます。心の嵐はちっぽけな波となり、そして大いなる創造主によって、平和の凪に静まります。


    例えば愛する人が死に面するときです。死に怯えて私たちは、祈りでイエスさまを起こします。「イエスさま、どうか起きて下さい。助けてください。これが最期なら、心の平和を、永遠の平安をお与え下さい。」それまで真剣に祈ってこなくてもいい。不真面目だったとしてもいい。そのとき「うるさく」執拗に祈れば主は必ず起きて下さる。(ルカ11:8) 「しかたない、私がなんとかする。静かにしろ」。そして復活の平和を与えて下さいます。愛する人は天国へ行くことができた、と安心できるのです。


    「わたしは教会の底で寝ている。あなたの心の底で寝ている。わたしを起こしなさい。死を目の前にして、うるさく祈って起こしなさい。わたしは必ず起きて嵐を静めるから。だからわたしを起こしなさい。」

    13 min
  • 自分を冒涜しないで(藤原健久司祭)

    「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

    マルコ3・29

    司祭藤原健久

    イエス様は言われます。「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエス様にしては珍しいほどの、厳しい言葉です。イエス様は、聖霊だけは絶対に冒涜してはならない、と言われます。それは何故でしょう。聖霊を冒涜することは、自分を冒涜することになるからです。

     聖霊はすべての人の中におられます。もちろん自分の中にも聖霊がおられます。ですので聖霊を冒涜することは、自分を冒涜することになるのです。そしてそれが、一番してはいけない事、絶対やってはいけない事なのです。まず自分を大切にすること、自分を愛するところから、全ては始まるのです。

     イエス様は言われました。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」私たちの使命は愛です。イエス様の「互いに愛し合いなさい」と言いう教えは、新しい掟として定められたものです。そして、その愛の前提は、自分を愛することなのです。今、若い人の中には「自分を愛する」ということが、とても理解しにくい人が居ると思います。自分が愛されているという実感が薄いのかもしれません。それは、家庭環境だけでなく、社会の状況によるものなのかもしれません。

     イエス様は「まず自分を愛しなさい。あなたは愛されるのに十分な存在なのですよ」と私たちに伝えてくださっていると思います。

     この言葉の前に、大切な言葉が記されています。「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」ここでいう「人の子ら」というのは、普通の人間の事を指していると思います。ここには、私たちが口にする冒涜の言葉は赦されるとあります。イエス様の心の中では、これは、ご自分に向けられた冒涜の言葉も含まれるのでしょう。イエス様はこう言いたかったのではないでしょうか。「私のことは、どれだけ冒涜しても良い。その代わりに、あなたたちは、せめて自分の事は大切にしなさい。」イエス様はその思いの通りに、人々からの十字架の重荷を甘んじて受け止められました。

     聖霊を大切にするのは、自分を大切にすることです。私たちはここから発展し、自分だけでなく、すべての聖霊を含むものを大切にするようになります。聖霊はどこにあるでしょう。それはすべての人の中であり、そして、神様に創られたものすべての中にあるのです。聖霊を大切にすることで、自分だけでなく、すべての人々、すべての被造物を大切にするのです。

     私は、自分のちっぽけなプライドが傷つけられた時に、とても腹が立ちます。本当にいけないことです。イエス様は、御自分のプライドを全て捨て去って、人々を愛されました。自分のあり方を神様の御前で懺悔し、正しく自分を愛し、全て非人を、全てのものを愛していきたいと思います。


    13 min

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聖書のメッセージです。聖公会司祭荒木太一による日本聖公会大津聖マリア教会での礼拝説教です。ブログサイトでは、絵画やイコンとともに、み言葉を黙想しましょう。