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「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」マルコ2:27
「安息日には働いてはいけない。」この戒めをファリサイ派は、こと細かに守りました。人を癒すこと、「床をかつぐこと」(ヨハネ5:9)、または歩く範囲まで定めました(使1:2)。神さまとの関係を忘れ、「してはいけない」という人間の禁止事項に束縛されるようになりました。
それでファリサイ派はお腹の空いた弟子達が安息日に麦を摘んで食べていることを咎めました。それに対してイエスさまは大胆にも「ダビデが安息日に神殿のパンを食べたように自分も食べてもいい」と答えてこう言いました。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」
安息日の本質は、あらゆる労働への隷属、労苦、束縛からの解放です。モーセの十戒では人だけでなく、奴隷も家畜も労働から解放されます。神が慈しむ人間の自由と創造物の本能を回復します。そしてエジプトの奴隷から解放してくださった主の救いを覚えて安息し、感謝と賛美を捧げます。だから命を回復することは安息日に適っているのです。「安息日に許されているのは…命を救うこと。」(3:4)
本来、働くことは善いことなのですが、生活の必要から、または神を忘れるとき、私たちは、忙しい日常生活の奴隷になってしまいます。労苦に縛られ、心の安息を見失い、疲れ果ててしまいます。
イエスさまは真の安息、つまり罪と死からの解放を定めるために十字架に束縛されて死に、死の奴隷から私たちを解放して下さいました。そして復活し、聖霊によって私たちの内に存在しておられます。
この聖霊の存在に満たされるのが教会の安息日である主日です。礼拝は仕事でも義務でもなく、安息です。神さまの存在の内にすべての労苦から解放されて、深く安息する場です。人間の全てのDoingを一旦委ねて、神さまのBeingに安息します。そして十字架と復活によって私たちを解放してくださった神さまへの感謝に満ちるのです。「父に信頼する者を苦しみから解き放つ」安息に満たされます。そして神に赦され、受け容れられ、新しくされ、養われます。
解放の食事である聖餐の内に、神さまの安息にホッとしましょう。
「私はあなたに安息をあげる。私はあなたを全てのDoingから解き放つ。だからそのまま、私の安息に、私のBeingに安息して ればいいんだよ。」
「どうか福音の宣教によって、聖霊がますます世界に注がれますように」(聖霊降臨日特祷)
2024年5月19日聖霊降臨日
正直なところ「宣教」や「伝道」と聞くと「しんどいなぁ」と思う時があります。世界伝道どころか私たちの教会の現実は、信徒数の減少や、高齢化や、教区や教会の統廃合…。特効薬はなく、魅力や「カリスマ」の少ない自分に失望したりもします。しかし聖書が強調するのには、福音伝道は人間の業績ではなく、聖霊の働きです。人間が自分の主張を人に押し付けるのではありません。自分の力に頼るものでもありません。「聖霊に満たされて霊が語られる」のであり(使2:4)、イエスさまの息による罪の赦しの宣言です(ヨハネ20:22)。弟子達は自分たちに聖霊が降るように一つに集まって祈りました。「み国が来ますように」の運動でもしたように、人々に聖霊が働くように祈りました。自分にも相手にも聖霊が働くように祈るのです。私たちも聖霊に頼るとき、勇気を出して語ることができます。「今この人に伝えたい」と願っておられる聖霊が力をくださるからです。「イエスさまはあなたに自分の命を与えたんだよ。あなたは愛されているんだよ」と。直接的にそう言うことは滅多にないと思います。でも間接的に「あなたは神さまに愛されている」というメッセージは、時と場合と人に応じて、また行いや態度によって伝えることができるものです。伝わらなくても、拒否されても気にしてはいけません。責任は聖霊がとられます。めげずに忍耐強く愛を伝え続けるのです。そうしている中で、聖霊が相手に働くとき、人は神の愛の宣言を受け容れます。それが「めいめいが生まれた故郷の言葉を聞く」(使2:8)という体験です。聖霊に呼ばれて人は神を選びます。十字架の愛を知ります。人が決心をする場に聖霊が働くのです。伝道については数ではなく聖霊を求めましょう。私たちが十字架の愛を語れる勇気を。相手がイエスさまの愛を受け容れる奇跡を。「わたしを信じなさい。あなたが語るべきとき、わたしが必ず勇気を与えるから。」
「わたしはあなたがたを友とよぶ」ヨハネ福音書15:15
2024年5月5日復活節第6主日 聖餐式
入院中に親しい友人ができました。有り余るほどの時間のなかで、ゆっくりと出会い、語り合い、 親しくなりました。自分の病気や 過去、今の気持ちや絶望、未来 の希望や願い・・・。心の奥を開 いて相手に告げることを通して人は親密になります。親しい友になります。何も語り合わないと親しくなれません。そして親友のためなら、何でもしたい気持ちになります。
イエスさまが私たちを友と呼んでくださるのもまた、表面上の呼びかけではありません。言葉と行いでご自分の心を開き、奥底を示しくださることを通して、親密な友となってくださいます。イエスさまの心の奥底、それはイエスさまが「父」と呼ぶ存在との親密な交わり、友情のような交わりです。「わたしはあなたがたを友とよぶ。父から聞いたことをすべてあ なたがたに知らせたからである。」 (15:15) 神とは友情そのものです。
この父と子の親密な友情は私たち人間にも向けられ、私たちをもその友情に入るように招かれます。 神は私たちと友情を結び、親密な関係、親友になりたいのです。しかし私たち人間はそんな神の友情を拒み裏切ってしまう存在です。そのままでは神の友にはなれない。だからイエスさまは「友のために命を捨て」、私たちの拒絶を自ら被って死なれました。そうすることで私たちの拒絶と裏切りを消し去り、 赦し、私たちをご自分の友、神の親友にしてくださいました。
十字架は、ご自分の友情に対する拒絶をも受け止める姿です。神 はその友情のために、ご自分の命をも分かち合ってくださった。神は私たちのために命を捨ててくれた親友です。わたしたちは神の親友なのです。何という喜びか。 だから親友が語り合うような親密さで、神と語り合ってよいのです。
そして友情には友情で応えます。いつどんな時も自分のために死んでくださった「友なるイエスさま」に忠実でいる。そしてイエスさまが友と呼ぶ人々を愛する。そうしてさらに神と親密になるのです。
口を通して触れ合う最も親密な瞬間である陪餐を通して、イエスさまとの親密な友情を深めましょう。 神は友情を分かち合われます。
「友よ、あなたはわたしの親友だ。友よ、あなたのためにわたしは命を捨てた。友よ、わたしの友情に忠実でいてくれ。友よ、わたしの最も親密な友よ。」
「父は別の弁護者を遣わして、 永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」
ヨハネ福音書14章21節
2024年4月28日復活節第5主日
正直なところ聖書のなかとは違い、イエスさまは目に見えないし触れることができません。どのように「共に」いてくださるのでしょうか。
聖霊降臨を控え、イエスさまの遺言が約束します。「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14:15)。この「弁護者」というのが聖霊の名です。聖霊はイエスさまの弁護人、代理人です。聖霊はイエスさまの存在を代弁し、その代わりになり、時と場所と形を超えて私たち弟子たちの内にいて、イエスさまを存在させます。純粋な愛そのものとして存在させます。
イエスさまは本当に肉体を持って復活されました。そして使徒たちに現れた後に「昇天」しました。つまりその体は今、目に見えない神の領域にあります。それ以降、直接に、復活直後のように、イエスさまの体を見た人はいません。
私たちはイエスさまが肉体的に共にいないことを受け容れて初めて、霊的に私たちの近くに、私たちの内に、存在するのを知ります。
これはちょうど、愛した人の肉体的な不在を受け容れて初めて、その人が心に居始めるようなものです。(イエスさまは体ごと生きておられる点は違うのですが。)
イエスさまの存在、それは愛そのものです。だからイエスさまを愛し、愛の戒めを行う人の内には肉体を超える弁護者がいつでもどこでも共にいて、イエスさまの存在を有らしめ、体験させ、悟らせてくださいます。愛が存在を呼びます。
聖霊は私たちの地上の身近な日常生活に働いて、イエスさまの存在をもたらします。目覚めた時、食べる時、働く時、話す時、休む時、祈る時。神さま、イエスさまなんていない、という不在のなかで、自分に最も近い魂の領域で、その存在と愛を引き起こされます。
聖霊が働く生活の中心、それが聖餐です。パンとワインを通して聖霊が働いて、私たちのうちに愛するイエスさまが存在し始めます。
「いつでもどこでもあなたの中で働く聖霊。それが私の存在だよ。」
「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」ヨハネ10:11-16
2024年4月21日復活節第4主日聖餐式
羊飼いには2種類いる、とイエスさまは譬えを始めます。雇い人は利益のためだけに羊を飼っています。だから狼に襲われれば自分の命を守るために逃げます。
しかし飼い主本人は、羊を自分自身のように大切にしています。ナタンという預言者の譬え話に、貧しい男とその全財産である一匹の子羊の話があります。子羊は男の乏しいパンを共に食べ、男の懐で眠り、「さながら娘のようであった」(サム下12:3)。飼い主にとって羊は、自分の子どもと同じほどに掛け替えのない存在なのです。
日本人には羊や羊飼いは身近ではありませんが、親子の関係を思えばよく分かります。愛する存在は守らねばならない。だから凶暴な狼が襲ってきも動かない。逃げない。どれだけ怖くても、狼を睨みつけて羊を守ります。たとえ噛みつかれて傷ついて殺されても、羊を守ります。犯罪者に襲われた時など、自分の子供ならそうします。
ここで狼とは罪の力のことです。私たちを神の愛から「奪いまた追い散らす」強い力です。(12節) 心を内側から喰らう闇です。神さまは体を張って私たちの代わりにこの力を受け、私たちを守られました。神は罪と闘う存在であり、十字架は神さまが受けた愛の傷です。
しかし十字架で殺された時、弟子たちは分かりませんでした。なぜ先生は逃げなかったのか。愚かなことだ。悲しい結末だ。
しかし復活したイエスさまに再会し、その愛を悟ります。「先生が殺されたのは愚かで弱かったからではない。私たちに代わって罪と戦い、私たちを救うために、罪と共に死なれた。死ぬほどまでに、私たちは神さまに愛されている」と。
「彼が担ったのは私たちの病い、彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし私たちは思っていた。彼は病いに冒され、神に打たれて苦しめられたのだと」(イザヤ53:4)これは十字架の苦しみの内から愛が現れ、それを悟る話なのです。あれは神さまの愛だったのだ、と。
聖餐では、私たちを守るために神さまが受けた傷から、その愛を飲ませてもらいます。どれだけ私たは神さまに愛されているか。
「私はあなたを守った。子羊のように子どものように死んで守った。安心しなさい。私はあなたを愛している。そしてあなたを必ず守る。」
「あの方は復活なさってここにはおられない」 マルコ福音書第16章6節
2024年3月31日 復活日
「イエスさまは、今も生きている!」これがキリスト教です。これを信じればそれで十分です。救いも赦しも、天の国も神の愛も、すべてはこれを信じる人に与えられます。
復活信仰とは、死んだ体がどのように復活するのかを分析して説明して納得することではありません。そうではなくて「イエスさまは死んだままではなく、今も私たちの近くで生きている」と信じて、罪と死の過去に囚われず、共に生きくださっている現在を確認し、明るく未来を生きていくことです。希望です。
しかしそう言われても、死を越える命を信じるのは困難です。イエスさまのご遺体を葬ろうと墓にきたマリアたちは、天使に復活を告げられました。「あの方は復活なさってここにはおられない」。そこで彼女たちは信じたのではなく「墓を出て逃げ出した。震え上がり正気を失っていた。そして誰にも言わなかった。恐ろしかったからである。」マルコ福音書は失敗で終わり、結末は読者の決断に委ねられます。あなたはどうする?
私たちはマリアたちのように、ともすると否定的な心で死や罪に目が行き、心が囚われるのが自然です。病気の不安や恐れ、死の悲しみ、罪を犯した過去、どうしても愛せない自分。心が暗くなり、希望を忘れ、絶望に傾きます。
しかしそれら全ての源である死を見つめても救われません。そこに主は「おられない。」死と罪は十字架と共に過ぎ去り、主イエスさまは新しく生きておられるのです。
つまり「死や罪を見つめるのはもうよしなさい。今も生きているお方を見つめなさい。あなたの痛みを負い、病いを知ったお方は、あなたの代わりに十字架で死に、今、新しい体で生きている。」聖書は初代信徒たちのこの強烈な「主は生きている」実感を伝えます。
一度は逃げ出したマリアたちも、イエスさまに出会うのです。その時どう生きるか。死と罪に囚われるのではなく、今も近くに生きておられるイエスさまを信じましょう。イエスさまを通して生活と人生と世界を信じましょう。死よりも強い命を、罪よりも優しい愛を、絶望より明るい希望を生活の中で実践しましょう
聖餐の只中に生きておられる主の声を聞きましょう。「今も私はあなたの近くで生きている。だから一緒に、新しく、生き直していこう。
「多くの痛みを負い、病いを知っている」(イザヤ53:3)
2024年3月24日復活節前主日・棕櫚主日
「分かるよ。私も同じ。」 どんな優秀なお医者さんの診察よりも、同じ病いや問題を抱えて苦しむ仲間の一言のほうが癒しとなることがあります。自助グループはこれをします。同じ苦しみを抱える人にしか分からない、言えないことを語り合うことで癒され、力づけられます。
神さまも、自ら体験することで私たちの痛みと病いを「知っている」存在です。人間の共感には限界がありますが、神さまは無限です。すべての人の痛みと病いを自ら体験して「知っている」のです。
イエスさまの苦しみ。復活後の信徒らは、その苦しみの意味をイザヤ書に見出しました。イエスさまが体験されたのは、私たちの病いと痛みだったのだ。私たちと一体になって、私たちの代わりになられた。それによって私たちは癒されたのだ、と。
病いと痛みには体と心の両方のものがあり、それは究極的には死に繋がります。また「神さまと自分との関係」としての魂の領域にも、病いと痛みはあり、それは罪と咎(罰)と呼ばれます。これらは魂の死、つまり神さまと絶縁された絶望と悲しみをもたらします。
しかしイエスさまは、体と心と魂すべての病いと痛みを体験し、完全に私たちに共感し、また私たちに代わって死に至るまで一体となられます。苦しみによって一つになってくださるのです。そして私たちを癒されます。「分かるよ、私も同じだから」と一言かけるように。
そして体を復活させて病いそのものを消し去り、心を平和にして良心の呵責を拭い、魂を赦して神と一つにしてくださいます。
神さまは、イエスさまの苦しみのうちに私たちを知ってくださっています。それは逆に言うと、私たちは苦しみの中で、イエスさまの苦しみを知り、神さまを知るのです。病いと痛みのなかで神を知るのです。
聖餐の苦しみのなかに、神さまの完全な共感を知りましょう。
「分かるよ。私も同じ。」
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