説教・聖書メッセージ「みちことば」

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説教・聖書メッセージ「みちことば」 episodes

  • 退屈な礼拝?
    「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」ヨハネ福音書第2章19節
    2024年3月3日大斎節第3主日       この場面をたとえるなら、急に若い神学生が礼拝に来て献金袋の中身をばら撒き、牧師を引きずり下ろし、会衆を礼拝堂から追い出し、叫ぶようなものです。「こんなの本当の礼拝じゃない」。十分な破門(または逮捕)の理由になります。
    イエスさまはそのようにして言われました。「この神殿を壊せ、三日で建て直す」。弟子たちはのちに、これは十字架と復活のことで、建て直す神殿とはイエスさまの体のことだったと、あとで悟ります。
    神殿や礼拝とは本来、神さまの存在が満ちるところです。十戒も、聖書も説教も、洗礼も聖餐も神さまの臨在を指し示すものです。「こう生きるなかで神は現れるよ。神の存在はこのようなものだよ」と。
    しかしパウロが嘆く「望まないことをしてしまう」罪の力によって、私たちは神さまを忘れます。(ロマ7:20) 礼拝は退屈に見え、信仰よりも金銭価値に縛られ、イエスさまを都合よく飼い慣らしてしまいます。
    そんな神さま以外の価値に基づく偽の礼拝を「壊せ」とイエスさまは命じられます。そして実際にご自分の体に悪を集めて十字架で死に、偽の礼拝を滅ぼされました。そして復活して言われます。「わたしこそ本当の神殿だ。神の存在が充満する場所だ。わたしに結ばれて聖霊の内に、父を賛美しよう」と。 
    本当の礼拝、それは「復活の主は今ここにおられる」と信じて主の体の一部となり、感謝と賛美を献げることです。人であるイエスさまを通して人生の喜びと悲しみを父に献げ、神であるイエスさまに出会うことで復活の命に再創造されます。
    イエスさまと親しく交わり、聖霊の内に父に献げる礼拝は、私たちの心の鈍さを遥かに超える力を持っています。人生を変えます。神が私たちの間にいるのですから。
    この大斎節、イエスさまと一体となって、罪と死とエゴに基づく退屈な礼拝を壊して頂きましょう。そして兄弟姉妹と共に復活の礼拝を建て直して頂きましょう。新しく創造された命が力強く宿る礼拝を。
    「退屈な礼拝はわたしが壊してあげよう。そして力ある礼拝をわたしが建て直してあげる。だから今日、わたしと一体となって献げよう。復活の存在に満ちた礼拝を。」
    19 min
  • 愛の十字架を背負う

    「自分の十字架を背負って」マルコ福音書第8章34節

    2024年2月25日大斎節第2主日

    世間一般に「十字架を背負う」とは、「一生消えない罪を背負う」という意味です。しかしキリスト教では罪を背負うのは神さまです。ですからこれは十字架で罪を消し去った神さまの「愛を背負う」という意味です。

      十字架の愛とは、神さまがご自分の命を犠牲として差し出し、私たちの罪を引き受けて死なれたことです。この愛の犠牲によって私たちの罪は消され、罪の定めも責めも私たちは背負わず、愛を生き始めるように召されたのです。

       自らを犠牲にする愛。これが現れたのが、アブラハムが息子イサクを惜しまず献げようとした場面です。これは神さまの愛の譬えです。(創世記22章)

      またパウロは神を「御子をさえ惜しまず死に渡された方」と呼びます。(ローマ8:32) これは決して「父が人類の救いのために息子を殺した」ということではありません。人間と違い、父なる神は御子と同一です。御子は父の第二の自分、自分自身です。神さまが自分を犠牲にして罪を背負い、担い、引き受けて死に、罪と死を消し去り、そして復活して命を与えられたのです。

      この自らを犠牲にするほどの愛が「神のことを思う」イエスさまの心です。そしてこの愛の犠牲を受け入れないのが「人のことを思う」ペトロの思いです。(マルコ8:33)

      私たちの罪を消し去るためにご自分の命を犠牲にされたイエスさま。この方が復活して今も生きておられます。この愛の犠牲を受け入れ、感謝し、赦された罪を悔い改め、この人の愛に応えて生きること。それが「十字架を背負う」ことです。死の苦しみにも罪にも負けず、自分のために死んでくださった神さまの愛を、自分なりに精一杯感謝して、生き切ることです。

      とは言っても神さまの愛を背負うことは、決して重荷ではありません。旅路を軽やかにする感謝と喜びの手土産です。なぜなら神さまの愛こそが私たちを背負ってくださっているからです。私たちは愛に背負われつつ、愛を背負い、愛を着て、上からも下からも神さまの愛に守られて、命の旅路を歩むのです。神さまの荷は軽いのです。(マタイ11:30)

      神さまは言われます。「あなたの重荷を背負うのは、あなたじゃなくてわたしだよ。あなたはただ、わたしの愛に生かされればいいんだよ。」


    19 min
  • 荒れ野が楽園に

    「サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」

    マルコ福音書第1章13節

    2024年2月18日大斎節前第1主日

      死から命の旅である大斎節の初めに読まれるこの奇妙な箇所は「新しい楽園の新しいアダム」のようです。このマルコ福音書にだけ野生の動物「野獣」がいるのです。創世記第1章で神は世界を創り、獣を創り、人間を創って楽園に住まわせ、食べるための木の実を与えました。同じようにイエスさまはここで野獣と共にいます。ですが天使に仕えられて養われています。野獣との間に敵意はありません。平和な楽園のようです。

      また古いエデンでは蛇の姿をした悪魔が人間(アダム)を誘惑し、人間は神になろうとして楽園を追放され、死にいく者となります。同じように荒れ野でもサタンがイエスさまを誘惑します。ですがイエスさまは(ルカのゲッセマネの園のように)天使によって仕えられ力づけられています。新しいエデンでは、人間は誘惑を退けて100%神さまを求め、100%自由になり、愛と喜びに満ちた最も人間らしい人間、最も自分らしい自分になります。

      ここでの新しい楽園としての荒れ野は、復活の命の先取りです。洗礼を受けたエスさまが目指す目的地です。死と悪魔の荒れ野が、命の楽園になる。そのために苦しみと復活の旅に出ます。私たちの死と悪を引き受けて死に、復活して新しい命の楽園を開かれます。

      使徒書ではノアの物語が洗礼の象徴とされています。死の洪水を方舟に守られた者は、新しい世界に生かされます。洗礼を受けた者もまた、新しい世界に生き始めるのです。死が命に変わります。

      人生の荒れ野は苦しいものです。渦中にあっては終わりも出口も、神さまの導きも見えません。神さまなんて信じないで、いっそ死んだ方が楽かとも思えてきます。まさに荒れ野は死と隣り合わせです。

      しかしイエスさまと一体になって神さまの奉仕を受け容れるとき、荒れ野は新しい楽園になり始めます。新しい人間になる場になります。神さまの奉仕により「お前が神になってしまえ」という悪魔の誘惑を退けるとき、神に愛された新しいアダムになるのです。

      「礼拝でわたしの奉仕を受け入れなさい。わたしはあなたの荒れ野を新しい楽園にしよう。」

    17 min
  • 何でもするから

    「子どもの上に身を重ね」列王紀下4章34節

    2024年2月4日 顕現後第5主日


     私たちは愛する人が病気や死に面するとき、「元気になるなら何でもするから」と願い、祈ります。  預言者エリシャには援助してくれていた大切な婦人がいました。しかしその息子が、くも膜下出血で亡くなります。悲しむ母親を前に、エリシャは「何でもするから」と預言者の威厳を何とも思わず、うつ伏せになって子どもの体の上に自分の体を重ね、自分の口を子供の口に、その手を手に、その目を目に付けて、創り主の真似をして息を吹きかけ、手を温めて懸命に祈りました。それでもダメなら、起き上がって家の中を歩き回っては思いつく限りの言葉でぶつぶつ祈り、もう一度、覆い被さりました。そうすると神はその祈りを聴き、息子は癒され、生き返ったのです。やみくもの努力が報われたのです。     イエスさまの周りでも同じでした。みな必死です。「元気になるなら何でもするから」とシモンは熱病の姑を連れてくる。それを聞いた人々も「何でもするから」と町中の病人や悪霊に取り憑かれた人々を連れてくる。イエスさまが祈っている最中にもかかわらず、「何でもするから」と弟子たちはガリラヤ中の人を連れてきたのです。  祈りにルールはありません。恥もプライドも捨て、思いついたことは「何でもして」神さまに願うのです。どんな言葉も、どんな姿勢も、いつでもどこでも誰にでも、必死に願うのです。そうすれば神さまはその願いを必ず聴き、死に対して命の勝利を現されます。それが「み国が来る」という宣教です。  イエスさまも「父よ、何でもしますから」と私たちが死の力から癒されるために祈りました。ゲッセマネで祈りました。その条件が「他人の罪を受けて死になさい」であってもそれを受けました。何とかして私たちを癒して、救いたかったのです。 そしてその命懸けの祈りを神は聴き、復活の命を与えられました。 神さまは私たちが罪から癒されるためには「何でもする」お方です。私たちの罪を背負って死ぬことさえ厭わない、愛のお方です。 「何でもするから」と自分の命をお与えになる神さまを陪餐で頂き、神さまの手足となれますように。「あなたが癒やされるためなら何でもする。信じるためなら何でもする。だから神さまを信じてください。神さまに癒されてください」と。

    19 min
  • わたしはあなたが好き

    「権威ある新しい教えだ」マルコ1章27節

    2024年1月28日 顕現後第4主日

     「私はあなたが好き」 恋する人に告白するときは、自分自身の気持ちを素直に伝えます。「〇〇さんはあなたを好き」とか「状況証拠から、私はあなたが好きなようです」では自分の思いは届きません。    カペルナウムの会堂で、イエスさまの語りかけを「新しい権威だ」と律法学者たちが驚いたのは、イエスさまが「自分自身の気持ち」として神さまの心を語ったからです。「聖書にはこう書かれています」とか「あの先生はこう言いました」と、他の権威によってではなく、自分の気持ちとして自由に、力強く語られました。神さま自らがご自分の心を語られたのです。驚きです。  それはただの、モーセの「ような」預言者(申18:18)ではなく、絶対の実行力を持つ新しいモーセです。人となり、死に、復活することによって新しい契約を結ぶ神さまが、自らの心を語っているのです。「結婚して下さい」と告白した人は、その結婚を実行するようなものです。イエスさまを通して神さまは、自らを犠牲にして命を与える愛を語るだけではなく、その愛を実行して死に、そして復活されました。死にも罪にも負けず、神の言葉を少しも違わず実行されました。  人となった神が語る自分の心、それは愛です。(1コリ8:1) イエスさまの教えは知識を伝えるだけの言葉ではありません。命をかけた愛の告白であり、愛の実行であり、人を愛に変えてしまう出来事です。「それでもわたしはあなたが好きだ。」 この神さま自らの愛の告白が、人に取り付いた汚れた霊を打ち負かせます。「この人は汚れている」という偏見の呪縛を打ち砕いて、愛は死に勝ちます。「ほかの人間がどう言おうと関係ない。それでもわたしはあなたが好きなんだ。」 聖餐の中心も神さま自らが語りかける「わたし」です。「これはあなたがたのために与える、わたしの体。わたしの、新しい契約の血。」神は聖餐で、ご自身の愛の心を開き、その愛を実行されます。陪餐のときの言葉を「わたしはあなたが好きだ」と言い換えてもよいのです。  そして神さまに「わたしは」と語りかけられた人は、自分の殻を出て神の溢れる愛に飛び込みます。自分の「私は」が呼び覚まされます。「私もあなたが好きです。小さく弱いですが、私の人生を捧げます。」 「わたしはあなたが好きだ。死ぬほど好きだ。あなたはどうだ?」

    16 min
  • 最初の愛

    「二人はすぐに網を捨てて従った」

    マルコ1章17節2024年1月21日 顕現後第3主日


     人生の終わりに夫婦が最初の愛を思い出して微笑む。この箇所はそのような記述です。裏切りや十字架、復活と聖霊降臨、宣教と殉教。色んな出来事を経てペトロがイエスさまへの最初の愛を振り返っています。そしてペトロの記憶を通して教会がイエス様への最初の愛を振り返っています。 

     ペトロはもともと「教皇」や「大主教」という世界的な宗教指導者とは程遠い無学な田舎の漁師でした。そこにイエスさまが来て「わたしについてきなさい。人をとる漁師にしよう」と言われたのです。それが最初の愛の瞬間です。その瞬間にペトロは家族も、家業の漁師も、自分の未来も不安も捨て「すぐに網を捨てて従った」のです。 最初の愛の瞬間にペトロを惹きつけた憧れは、イエスさまのうちに近づいた新しさと懐かしさでした。「神の国は近づいた、悔い改めて福音を(わたしを)信じなさい。」新しい世界を見たい。忘れていた本当の自分に帰りたい。あなたについて行きたい。  

     最初の愛。私にとってそれは学生時代に礼拝で感じた「このためになら生きていける」という、探し求めていたものを見つけた喜びでした。生きる意味、人生を捧げる相手でした。そしてこの最初の愛を貫こうとし始めました。 

     神さまへの最初の愛。どんなに小さくても、この世的な出来事でもいい。皆さんにもあるのではないでしょうか。最初に神さまを愛した体験です。 

     ただし私の場合は、洗礼を受け、聖職按手も受けたものの、病気や失敗で自信を失い続けてきた最初の愛です。それでも自分の愛を超えて神さまはここまで私を連れてきてくれました。神さまこそが、最初の愛を忠実に貫いて、私を守り導いてくださったのです。  

     ペトロもまた、裏切りと宣教と殉教を通して何度も最初の愛を忘れかけましたが、それでもイエスさまに導かれて、かろうじて愛し続けたのです。   

     そしてイエスさまこそ、ペトロと出会った最初の愛を貫かられました。ペトロを愛して「人をとる漁師にする」と約束し、その約束を果たすために十字架でペトロの罪を担って復活し、聖霊によってペトロの宣教と殉教を力づけ、最終的に人をとる漁師としたのです。イエスさまが愛を貫いてくださるからこそ、私たちも愛を貫けるのです。  元漁師の教皇が語ります。「最初の愛を貫きなさい。私も何とか貫いた。」 

     イエスさまが語ります。「最初の愛を貫きなさい。私はあなたへの愛を必ず貫いて、罪と死を背負って守るから。」 

     そして信仰生活の最後には、最初の愛を振り返って、感謝しましょう。「あぁ、あなたを愛して本当によかった。」

    20 min
  • 言い聞かせる

    「あなたはわたしの愛する子」マルコ福音書1章11節

    2024年1月7日 顕現後第1主日 主イエス洗礼日


     ズドーンとこの言葉が心に響きました。何の難しい考えもいらない。註解書も神学書もギリシャ語の分析よりもさきに、神の愛は私の心にズドーンときます。どんなに不安でも、悩んでいても、怖くても、祈りが足らなくても関係ない。神さまは語り続けられます。私のために死んでくださるほどのその愛を。「あなたはわたしの愛する子」と。

     このマルコ1章11節が聖書にあるかぎり、昔も今もこれからも、どんな時もずっと、私は安心です。その都度、何度も何度も神は私に愛を語ってくださるからです。

     神の愛は感情だけではありません。神の愛を感じるかどうか自分の心や体験の中を探さなくてもいいのです。イエスさまと一緒に、聖書の言葉を自分に言い聞かせれば、その言い聞かせる言葉を通して神さまは語りかけられます。「あなたはわたしの愛する子」と不安で恐る自分に言い聞かせればその言葉を通して、神は語りかけられます。ゆえに聖書は救いの書なのです。

     イエスさまは宣教活動の初めの洗礼で、この父の愛の言葉を聞きました。以来ずっとこの言葉を自らに言い聞かせられたのだと思います。荒れ野で悪魔に面し、神の支配を宣言し、弟子を選び、人を癒し、論敵と対峙し、友に裏切られて死ぬ人生。その間ずっと愛を自分に言い聞かせ、人に教え、父に祈られました。そしてその言葉を通して、父はイエスさまに愛を語り続けてこられたのだと想像します。

     だから十字架の苦しみの中で「神に裏切られた」と嘆きつつも、それでも「あなたはわたしの愛する子」という愛を信じたのだと思います。そして復活がその神の愛を確証したのです。

     聖書の愛の言葉を自分に言い聞かせましょう。神はその中で愛を語られます。洗礼と聖餐を通して自分に言い聞かせましょう。

     「わたしの愛を言い聞かせなさい。そうすれば必ず聴き取れる。あなたはわたしの愛する子。」


    16 min
  • 絶対に何かが変わった

    「復活によって力ある神の子と定められた」

    ローマ書1章4節2024年1月1日 主イエス命名日 

    年が変わった朝、「新しく変わりたい」願いつつ、「どうせ何も変わらない」と現実的には諦めているところもあります。 

     しかし回心したパウロは宣言します。世界は絶対的に変わった。この福音を私は伝えると。元来「福音」とは王の即位の知らせです。国中に伝えられる統治の交代の知らせです。

     だからイエスの「福音」とはイエスの人生を通して神ご自身が世界の王に即位した、という知らせです。ダビデの王家の血を引く若者が王に即位した。「力ある神の子」として即位した。「神の子」とはローマ皇帝の称号で、キリストとは「油注がれた王」です。

     ただしその即位は驚くべき形でした。無実の処刑と復活の出来事です。死者が復活したというこの世界の絶対の変化、不可逆的な変化が実際に起こりました。紀元30年4月9日(日)の早朝です。世界はそれから絶対的に何かが違うのです。

     神ご自身が私たちの罪を被って死に、私たちの罪の決着をつけ、私たちを赦し、罪の束縛から解放してくださった。そして復活によって私たちに、死を超える新しい命へと再創造を働き始めました。

     この客観的な変化は私たちの感情に関係なく、実際に起こった絶対的変化です。この復活による救いの知らせが「福音」です。

     それは聖餐を受ける前と後では確実に何かが変わっているようなものです。

     「私は復活した。絶対的変化があり、古いあなたは新しくなる。希望をもって、新しく生きなさい。」

    15 min
  • 神さまの忠誠心

     「忠誠心が現れたので」 ガラテヤ書3章25節2023年12月31日 降誕後第2主日


    誕生以降、イエスさまはどのようにマリアに育てられて、どのような少年に、青年に成長していったのでしょうか。  イエスさまの人格の中心。それは「忠誠心」です。信仰とも訳されます。 信仰とは「神は存在すると思う」ことではなく、何があっても神さまに忠誠を尽くすピエタ心です。旧約の律法はそう教え、審きました。 逆に罪とは、神さまに忠誠を尽くさず裏切ることです。アダム以来人類は、またイスラエルの民は、神への忠誠を破り続けました。 しかしクリスマスに神の子が人として生まれた。「忠誠心が現れた。」イエスさまはイスラエルの民の鏡、最も人間らしい人間です。神と人に忠誠を尽くすお方です。何があっても、どれだけ裏切られて苦しくても、十字架の死に至るまで、ご自分の命を与えて愛し続けるお方です。たとえ私たちの罪と悪を背負うことになっても、私たちを愛されるお方です。私たちに愛を誓い、その愛に忠誠を尽くすお方です。 人となられた神イエスさまの忠誠心に結ばれて、私たちも、忠誠を尽くす真の人間になれます。イエスさまに結ばれて、父に忠誠を尽くす神の子になれます。 そして私たちが忠誠を尽くすのは、イエスさまの内で自らの命を与える神さまです。十字架と復活による命です。この命の神さまに忠誠を尽くして、罪と死と病気の力を退けるのです。それが受洗者の生涯です。 究極的には、神さまは忠誠そのものだといえます。何があっても私たちへの愛を貫かれるお方なのです。クリスマスに現れたのは私たちの本当の姿です。真の人間です。神と人に忠誠を尽くす生き方です。 聖餐でイエスさまの忠誠心をいただいて祈りましょう。「アバ父よ、私はあなたに忠誠を尽くします。」

    16 min
  • ガザのおくるみ

     11月中旬、ガザのシファ病院からの写真には電力不足で停止した保育器から出された39人未熟児が、緑のシーツにくるまれて寝かされていました。1200gにも満たない未熟児は、酸素吸入と温度管理がなければすぐに死んでしまいます。実際に国連と新月社に救助されるまでに8人の小さい命は尽きてしまいました。看護師たちにできたのは自分たちの体温で温めてシーツでくるむことだったそうです。死に対する愛の抵抗です。

     神は本当にいるのか。なぜこんなにも弱く、弱いからこそ大切にされるべき命を死なせてしまうのか。怒りの涙が出ます。

     放っておけば死んでしまう無力な命。だからこそ自分のできる限りで守ってあげたい。神の母マリアもヨセフも同じでした。

     天使に約束された初めての子を旅先で産む。出産のために宿屋の代わりに馬小屋を見つけ、揺りかごの代わりに飼い葉桶に寝かせ、旅荷の布を「おつつみ」にして大切に赤ちゃんを包みました。裸の命を温めました。放っておけば冷たくなって死んでしまうのです。

     人間が愛さなければ死んでしまう無力な存在。神はそんな存在となりました。それはあの未熟児のように、愛されなければ死んでしまう無力な私たちと一体になるためです。そして私たちの弱さを受け容れ、死んで復活することで、新しい命に生まれ変わらせるためです。 

     そしてイエスさまはあの未熟児の顔から語りかけられます。「私はあなたの愛が必要だ。無力でもいい、助けられなくてもいい。それでも目の前の小さな命を自分の体で温めて、心でくるみなさい。死に対して最後まで愛で抗いなさい。あなたの愛を通して私は人間を愛する。」

     それが馬小屋の一枚の布であり、シファ病院のシーツです。死の力に愛で対抗するとき、神はその愛の中にいます。そして私たちの愛に力を与えるのです。

    幼子イエスと共に、召された赤ちゃんと共に、おくるみのような愛を祈りましょう。

    「わたしは全能に無力な愛だ。わたしをくるみ、わたしと共にくるまれ、死に愛で抗おう。」

    14 min

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聖書のメッセージです。聖公会司祭荒木太一による日本聖公会大津聖マリア教会での礼拝説教です。ブログサイトでは、絵画やイコンとともに、み言葉を黙想しましょう。