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「多くの苦しみを受ける・・・と弟子たちに打ち明け始められた」マタイ福音書16章21節
2023年9月3日 聖霊降臨後第14主日(特定17)
(残念ですが、低音質です)
神学校同期の友は、54歳で早逝しました。年齢も社会経験も能力も私よりずっと上なのに、彼と私は対等な親友でした。彼が自分の葬送式に前もって選んでいた歌は松山千春の「この世で君が一番好き」でした。
この世で君が一番好き
この世で君が一番好き
ただ何となくこの気持ちを
今、伝えたくて
こんなに生きていたいなんて
こんなに生きていたいなんて
ただ漠然と心が叫ぶ
そう何度となく
この世で一番君が好き
彼が伝えたかった「君」とは誰のことなんだろうと思いました。一番にはやはり大好きだった奥さまでしょう。または参列した私たちのことかもしれません。または彼が大好きだったイエスさまのことか。または「イエスさまはあなたを大好きだよ」と伝えたかったのかもしれません。
この歌を選ぶ彼の姿は、イエスさまの姿に重なります。
「今、私は苦しみ死んでいく。本当は、こんなに生きていたいなんて…でも悲しまないで。私の人生はこの気持ちを今、あなたに伝えるために生きてきたんだ。この世で一番君が好き。」
イエスさまを通して神さまは弟子たちに伝えたかったのです。打ち明けたかったのです。「今から受ける苦しみと死には意味がある。それはあなたにこの気持ちを伝えるため。あなたを愛している。君が好き。」
弟子たちがこのメッセージを理解するのは復活のイエスさまに再会した後です。「あぁ、あの時イエスさまは、愛を打ち明けてくれていたんだ」と。
イエスさまの人生はこの愛の「気持ち」を伝えるためでした。私たちも同じ様に伝えましょう。「この世で一番君が好き。」
「この岩の上にわたしの教会を建てる」マタイ福音書16章18節
2023年8月27日 聖霊降臨後第13主日(特定16)
神さまとは、必ず誓いを果たす存在です。イエスさまは、弱さだらけのペトロを「岩」と呼び、彼の上に「わたしの教会」を建てられ、そして愛を誓われました。「陰府の力もこれに対抗できない。」(16:18)わたしは必ずあなたを守り通すと。
私たちはペトロの末裔です。神さまが必ず守り通す、と愛を誓われた共同体です。
だから私たちがペトロのようにどれだけ弱くて神さまを誤解し、疑い、裏切っても、それでも神さまは必ず愛の誓いを果たされます。「主の教会を清め守り、恵みと力によっていつまでも堅く保って」くださるのです。(特定16特祷)
実際、ペトロの信仰告白には誤解がありました。彼が「メシア(油注がれた王)、生ける神の子」(18:16)に望んだのは、霊的な解放ではなく、軍事的独立でした。だから叱責されます。(16:23) また、ペトロは湖の上を歩く場面でもイエスさまを疑い、ゲッセマネでは眠りこけ、そして大祭司の中庭では愛する先生を裏切り、激しく泣いた人です。
しかしそれでも全ての場面でイエスさまは「ペトロを見つめられた。」(22:61) つまりイエスさまはペトロを決して見捨てられず、誓いを反故(ほご)にされず、誓いを果たされました。誤解と疑い、弱さと裏切り。これらにも関わらず復活の主イエスさまは、ペトロを赦して世界に広がる教会の岩にされたのです。
同じように神さまは最初の愛を貫いて私たちを正し、信じ、強め、赦し、守ってくださる。これが私たち、ペトロの末裔への神さまの誓いです。「天の国の鍵」であり、「結んだり解いたり」して人に伝える神の愛です。赦しとは、過ちにも関わらず最初の愛を貫くことです。
私たちは聖餐式で告白します。「主イエス・キリストを信じます。」ですが実態は弱く、誤解ばかりで、愛を裏切り、死の力に負けてしまいます。しかし神さまは、何度でも、悔い改める人を赦し、愛の誓いを果たさます。これが新しい誓約(新約)です。この誓約を感じるために聖餐式では「あなた方および多くの人のために流す、わたしの新しい契約の血」を飲むのです。
「あなたがたはペトロの末裔。愛を誓ったわたしの教会。安心しなさい。わたしは必ずあなたを守り通す。最初の愛を貫き通す。」
「水の上を歩いてそちらに行かせてください」マタイ福音書14:28
2023年8月13日 聖霊降臨後第11主日(特定14)
教会は一度も順風満帆だった時はありません。現代日本でも、宗教改革でも、中世でも古代でも、マタイ福音書の時代でも教会はいつも「逆風の波に悩まされている舟」です(14:24)。迫害・弾圧、伝道の失敗、分裂、対立、教会離れ、愛の欠如、献金不足、貧富の差……私たちの教会の問題は既に聖書に描かれています。それが希望でもあります。
マタイ14章の「水上歩行」は譬えです。「教会が悩まされる時、あなたはまず一人になり、イエスさまだけを見つめ、水の上を歩くように祈りなさい」と。
波風に悩まされる船に、イエスさまはその波の上を歩いて来られます。「安心しなさい。私だ。」そこでペトロは願います。「もしあなたなら、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスさまを証明するためでもあり、「波風に苦しまないあなたのところに行かせてくだい」という願いです。
「来い」と呼ばれたペトロは舟から出て水の上を一歩一歩進みます。しかしすぐにイエスさまから目をそらせ、波風に溺れ死ぬ不安に駆られた瞬間、沈みます。ですが「主よ、助けてください」とヨナのように叫ぶとイエスさまは手でしっかりと掴んで下さいます。「なぜ疑ったのか。」そして船に連れ戻されると、波は静かになります。
支配欲、不信感、虚しさ、愛の欠如、疲れ・・・。問題ではなくイエスさまだけを見つめ、イエスさまと親しく心を通わせて波の上を歩く。気を奪われて沈んだとしてもいい。主が必ず掴んで下さる。これが、教会が必要とする個人の祈りです。
そしてイエスさまに連れられて愛する舟に帰ってきたとき、風は静まります。一人の祈る人が教会を変えるのです。
「さあ、あなたもその船を出て歩いて来なさい。沈んでもわたしが掴むから。ただわたしだけを見て、一人で歩いて来なさい。」
「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる出エジプト」 ルカ福音書第9章31節
2023年8月6日 主イエス変容の日
「主の変容」でイエスさまは、モーセとご自分の最期、つまり死について語り合っているときに光り輝きました。この「最期」のギリシャ語は「出エジプト」であり「脱出」です。つまりイエスさまは出エジプトの神として死んでいかれるのです。
神はあの過越の夜、海を割いてエジプトの支配下にあった民を脱出させ、そして支配者ファラオの軍勢は海で滅ぼされました。そして民を「奴隷の家」から自由な地へと導かれました。(出20:2)イエスさまは支配を滅ぼす神です。そして人間を苦しませるすべての支配を滅ぼして、人間を救う神です。
身近にはどんな「支配」があるでしょうか。ウクライナにとってのロシア、支配的な男性、上司、親族、信徒も司祭もいるでしょう。支配された人は、相手の都合の良い「奴隷」のように感じて苦しみます。
私を含め、支配欲は「自分の思い通りにしたい」と欲します。自分の人生を都合のようにしたい。だから周りの人、家族、隣人、教会の人間関係でさえ自分の理想どおりにしたい。皆が持っている欲です。
しかしイエスさまは支配を滅ぼす神です。エジプトの支配に苦しむモーセたちに降られたように、神は罪と死の支配に苦しむ私たちに降られました。人間イエスとなられました。そして私たちの代わりに支配を受けて死ぬことで、支配を滅ぼし、私たちを脱出させたのです。
家臣の命の代わりに自らの首を差し出す戦国大名のようです。
海は死の象徴です。イエスさまの十字架の海に、神は支配の軍勢を沈めて滅ぼし、私たちを洗礼の海を潜らせ、人生の荒れ野を聖餐のマナで養い、自由の地へと導かれます。愛は支配を滅ぼし、解放し、脱出させて自由にします。
支配からの自由の完成、それが復活であり、神の国です。
イエスさまが光り輝いたのは、新しい出エジプトである十字架の向こう側に輝く、神に支配される自由な命を見たからだと思います。
イエスさまは必ず悪い支配を海に沈め、私たちは洗礼の海を潜らせて自由にして下さる。洗礼の恵みを信じ、明るい希望をもって生きていきましょう。出エジプトの教会として。
「商人が良い真珠を探している」マタイによる福音書第13章23節
2023年7月30日 聖霊降臨後第9主日 (A年特定12)
真珠商人の譬えでは、商人が良い真珠を探し求めて旅をします。それが何日何年続いたか、とうとうある店で見つけます。すると商人は喜んですぐに持ち物を全て売り払い、それを買いました。長いあいだ探し求めてきた日々が成就したのです。
この譬えは、探し求める信仰生活が成就する喜びと、そのためには喜んで全てを手放す覚悟を描いています。
学校を、仕事を、結婚相手を、教会を・・・小さいことから大きいことまで、人間はいつも何かを探している存在です。健康を探し、安心を探し、楽しみを探し、幸せを探しています。
直接「神を探す」とは思わなくとも、私たちが探す幸せは、いつも幸せの源である神さまの中にあります。神さまの中で初めて、探し求める心は「もう探さなくてもよい平安」を見つけます。「主なる神よ、私たちの心はあなたの中で安らぐまで、安らぐことはありません。」
この安心がイエスさまに始まった神の国です。神の国に入る手段はイエスさまご自身です。父を探し求めてそれが成就したイエスさま。このお方のうちに最も人間らしい人間性、探し求める心は成就しました。イエスさまに結ばれるなら、私の探し求める心もまた、父を見つけて成就するのです。
真珠商人のようにイエスさまは私たちのために、私たちと共に、父を見つけ、探し求める日々を成就して下さいました。
そして私たちのために父を見つけたとき、イエスさまはご自分の命を十字架上で売り払い、復活の安息を買われました。だから私たちも自分の命を売り払う覚悟を持ちたいのです。
私たちの探し求める日々は、必ず成就するのですから。
「両方とも育つままにしておきなさい」マタイによる福音書13章30節
2023年7月23日 聖霊降臨後第8主日 (特定11)
あの人さえいなければ、と思う「魔の瞬間」があります。自分は正しい!! と思うときほどそう思います。親族でも、友人でも、教役者団でも、教会でも・・・。そんなこと考えてはいけないと思うのですが、そう思えば思うほど執着してしまいます。
ほっとするのは、イエスさまの弟子たちや、マタイ福音書を伝えた初代教会も同じだったことです。
「毒麦の譬え」は教会の譬えです。主人が良い麦を撒いた畑に、毒麦が出てきました。僕(しもべ)たちは「こんな毒麦さえなければ!」と息巻いて主人に「抜き集めましょう」と願いますが、止められます。「良い麦も一緒に抜いてしまうからやめとこう。刈り入れまで待とう。その時が来れば、あなたたちではなく、私が遣わす者に刈り取らせて、それから毒麦を束ねて焼くから。」
僕たちはイライラしています。目の前で毒麦が実っているのです。「自分なら毒麦だけを引き抜くことができます!」 しかし主人は「忍耐して刈り入れ時を待とう」と戒め続けます。いつまで忍耐しなければいけないのか。私たちは短気なのですぐ心が折れ、絶望し、諦めます。短気は人間の弱みです。
しかし最も忍耐して、苦しんで、刈り入れを待っているのは、僕たちではなく、主人です。
僕たちは毒麦に執着しますが、主人は良い麦に目を注ぎます。僕たちには見えませんが、主人には見えています。毒麦の根に絡み付いている良い麦が。だから待っています。慈しみの心で毒麦の存在を忍耐しています。もし僕たちが焦って良い麦を一本でも抜いたなら、主人はどれだけ悲しむことか。
これは十字架の忍耐です。毒麦に絡みつかれた良い麦のために、イエスさまは毒の存在をその身に受けて忍耐しておられます。そして刈り入れの日には、良い麦を喜んで収穫し、今まで忍耐してきた毒は焼き尽くされます。
だからイエスさまはユダをも晩餐の席に着くことを許されました。毒を抜かずに忍耐されました。最後までユダを慈しまれたのです。
神は慈しみ深く忍耐強い。だから私たちにも慈しみ深く忍耐強い人生と、教会生活を送るように励まされます。しかも私たちと共に苦しみ耐えながら、励ましてくださいます。喜びの刈り入れの日まで。
「あなたは焦って抜かなくていい。わたしと一緒に忍耐しよう。慈しみ深く待とう。永遠の一瞬の後に来る、喜びの刈り入れの日まで。」
「自分の十字架を担う」マタイ福音書10章38節
2023年7月2日 聖霊降臨後第5主日 (A年特定8)
世間一般的に「十字架を背負う」とは「生涯消えない罪や苦しみ」という意味です。死亡事故を起こした罪や、津波で家族を死なせてしまった後悔は、「一生背負っていかねばならない私の十字架だ」と。
しかし復活信仰によって書かれた聖書では、十字架は常に復活と表裏一体です。だから十字架を担うことは、復活をも担うことです。古い自分に死ぬだけではなく新しい自分に生きることです。十字架のイエスさまと一緒になって罪を犯す自分に死に、復活したイエスさまと一緒になって新しく生きていく決心です。自分のためではなく、神のために生きる選択です。
だからこの言葉の直前の「敵対」は「むやみに信仰を持たない家族に敵対せよ」ではありません。そうではなくて、「あなたが」自分の十字架と復活を選び取るか、選び取らないかには、絶対的な差がある。他の人は関係ない。家族でさえ代わることはできない。何よりも先に「あなたが」懸命に十字架と復活を選び取れ、と言いたいのです。
だから「私のために命を失う者はそれを得る」のです(10:39)。主の十字架と共に古い自分を失った者は、主の復活に与かって新しい自分を得るのです。
パウロも訴えます。「罪に対しては死んだ者、神に対してはキリストイエスにあって生きている者と思いなさい。」(ローマ6・11) 神さまご自身が私たちを愛して、私たちの罪を引き受けて死なれた。そして私たちを復活の命の中に受け入れてくださった。だからイエスさまに結ばれたあなたも、自分の罪に死に、神に生きることを選び取れ」と。
ただし自分が人に付けた傷は残ります。新しく生きるとは、罪を忘れて自分だけ自由になることではありません。どんな罪や過去をも全てを受け止め、しかし新しい心で、愛し直すことです。愛し、謝罪し、償い、責任を取る。そして償いきれない罪をも、常に自分に死んで神に生きることで、償い続けていく。人への償いもまた、十字架と復活を選び取ることで続けていけるのです。自分が傷つけた人の前で、私たちは何度も死に、そして何度も生き返って償い続けていくのです。
西洋美術で、復活のイエスさまが掲げる十字架には、旗がついています。これは罪と死に勝った神さまの軍旗です。私たちはこの軍旗に従う兵士です。そしてこの方の後についていく私たち自身がかかげて進む十字架もまた、復活の勝利の軍旗なのです。
自分が担う十字架は復活の軍旗であると信じ、人を愛し直す新しい自分、復活の命に生かされる自分を選び取りましょう。
「十字架と復活の旗を取って、私についてきなさい。私たちは勝った。罪と死の古い私たちに死んで、愛と命の新しい私たちを生きよう。」
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。」マタイ福音書10章29節
2023年 6月25日 聖霊降臨後第4主日 (A年特定7)
イエスさまは身近な自然や生活に父なる神を見て、教えられました。「ほら、この市場では雀が二羽600円だ。安いね。でもこんなに小さくて安い雀でさえ、父なる神の御心に貫かれているんだよ。ましてあなたは何十倍も大きくて価値があって、もっと強く確かに御心に貫かれ、守られ、愛されているんだ。だから何も誰も恐れてはいけないよ。」そして弟子たちは雀を見るたびに、世界の隅々にまで貫く神の御心を思い、信仰を強くしたのです。
ただしこの「御心の確信」の背景には迫害があります。母体のユダヤ教から迫害されつつ、負けずに福音宣教に出てクリスチャンを励ます言葉です。ここで三度繰り返される「恐れるな」は、自分たちのことを嫌って暴力をふるう人を恐れるな、なのです。
迫害はいつもあります。キリシタン時代にも、現代のアフリカ、中国、北朝鮮でも・・・。教会は襲われ、聖書を持っているだけで捕らえられ、拷問を受け、殺される。
だからイエスさまは「それでも恐れるな。あなたの命はその隅々まで、わたしの御心が貫いている」と宣言されます。そしてこれを信じるクリスチャンは、厳しい現実だからこそ、より強い信仰を持ち、それを現すようになります。
私たちも福音宣教に呼ばれています。「あなたも私も神さまの雀、イエスさまはあなたのために死んで復活した」と。宣教師のようでなくていい。人と一緒に祈る。自分一人で祈る。人を教会に誘う。洗礼・祝福に招く。手紙を書く。プレゼントを送る。ただただ目の前の人の必要に仕える。そんな小さい「雀の宣教」でいいのです。
イエスさまも祈って十字架に向かわれたのだと思います。「父よ、一羽の雀のように御心に貫かれたこの命、あなたに献げます」と。
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