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「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」マタイ福音書4章10節
2023年3月5日 大斎節第1主日 (A年)
人間を人間らしくする。自由にする。そのために子なる神さまは人間となり、悪魔の誘惑を受けられました。そして父なる神さまに従うことで悪の束縛を断ち、自由を開かれました。「完全な自由は主に仕えること。」(祈祷書、朝の礼拝)完全な自由は、好き勝手に環境を支配できる力ではなく、神さまへの従順によって得る、悪の束縛からの自由です。大斎節とは、イエスさまと一緒に父に従うことで、悪の束縛から自由へと向かう旅です。
ただし悪の誘惑はそうとは分からないもの。イエスさまへの誘惑は「世のすべての支配(王国)」でした(4:10)。これは実はイエスさまが欲しいものと似ていました。イエスさまはメシア、油注がれた王です。その目的は全地を支配することだからです。悪の力に従うか、神の愛に従うかでは大きな違いですが、「支配」という点では同じです。だからこそ強い誘惑だったのです。
喉から手が出るほど欲しい「支配」または管理。私たちにとってそれは何でしょうか。人間関係においては家族や職場や地域、または教会さえも自分の願い通りにできる「支配」。自分の人生においては、自分の人生を計画通りに運びたいという願いでしょう。良く言えば「管理」、悪く言えば「支配」です。
幸せへの願いは悪くないはずです。神さまは祈りを必ず聞いておられます。しかしいったん自分の願いに執着し、神さまへの祈りを忘れ、神さまに不従順になれば、私たちは自分の欲に束縛され、心は死んでしまいます。悪魔は自分の中に住んでいます。それは支配欲です。執着です。悪と罪と死の束縛です。アダムとイブが堕ちた、自分を神と思わせる罠です。
しかし神さまは人間を自由にしたい。そのために人となられた神、イエスさまは、人間の支配欲と執着と一緒に十字架につけられ、死なれました。自分と共に支配欲を十字架で消滅させました。人間を支配欲の束縛から解き放たれました。そして復活して私たちをご自分に結びつけてくださいます。そして一緒に なって父に従順になることで、悪い束縛からの自由に与らせて下さいます。その極みは復活です。死の力からの自由です。
聖霊によってイエスさまに結ばれ、父に従い、父を礼拝し、父に支配されて、父の愛を実践する。これが最も人間らしい人間、自由な人生、自分らしい自分、そして本当の礼拝生活です。
「自分でどうにかしようとしなくていい。わたしに任せなさい。あなたを自由にするのは、わたしだ。」
「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられますように」
(大斎節前主日特祷) 2023年2月19日大斎節前主日
マタイ福音書第17章はイエスさまが山の上で光に変わった「主の変容」の箇所です。特祷はこう祈ります。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられますように」。
それはない、と私たちは思います。「人はそんなに簡単に変わらない…まして栄光から栄光へとイエスさまと同じ姿になんて…」。
しかし「人は変わる、神さまが変えてくださる」と信じる「変容信仰」は私たちの希望です。
「復活信仰」は信じます。イエスさまは復活して今も生きているから、死を前にしても絶望しない、と。また、「受肉信仰」は信じます。神さまが人となって私たちの間に宿られたから、この世の人間関係にも神さまは宿っていてくださると。
そして「変容信仰」は信じます。人となった神、イエスさまは人の姿から光の姿に変わった。だから同じようにイエスさまを信じて結ばれる人も、必ず神さまが光に変えてくださると。「自分はどうせ変わらない」と諦めなくてよいのです。神さまは私たちを愛しておられます。だから、今はどんなに暗くとも私たちを必ず光に変えてくださいます。私たちの内に働き、私たちを慰め、私たちを変えて新しい命で輝かす。これが聖霊なる神さまです。
しかも私たちは、自分の限界を超えて、終わりなく限りなく「栄光から栄光へ」と変えられていきます。神さまの愛が無限であるから、私たちの変容も限りなく続きます。それが「永遠」の命です。
しかし変容の道は苦しみの道です。ペトロが願ったように、山に留まっていては何も変わりません。イエスさまは私たちの命を輝かせるために山を降られました。人生の坂を降られました。命を降られました。私たちの闇に降られました。罪人として死ぬ十字架の闇にまで降られました。そして人の闇を自らの命で照らし、消し去られました。
そして死の闇から復活して起き上がったのち、聖霊は私たちをイエスさまの復活の姿に変え始められました。そして今朝も、パンと葡萄酒を変容させる聖餐式で、私たちを変え続けてくださっています。
聖餐の主の前で自分を、兄弟姉妹を振り返ってみましょう。暗く否定的な眼鏡を捨て、神さまの透明な眼鏡で見てみましょう。どこかが変りませんでしたか。闇から光に変わりませんでしたか。そこに働いたのが聖霊なる神さまです。
私たちは必ず変わります。主と同じ姿に変わります。罪から愛に、死から命に、悪から善に変わります。主と私たちの、変容を信じましょう。これが私たちの希望です。
「愚か者、と言う者は火の地獄に投げ込まれる。」マタイ福音書5 : 22
2023年2月19日 顕現節第6主日(A年)
十戒の「殺すな」は他人ごとに思えます。殺人なんて犯していないからです。
ですが律法の完成者、イエスさまはこれを厳しく捉えて「自分ごと」にされます。人に腹を立て、バカだの愚かだのと価値判断をする人は地獄行きだ、と。新しい戒めは行いの結果ではなく、心のあり様です。
しかしこれでは一体誰が地獄を逃れられるでしょう。私は、顔に表さずとも無意識に人の価値を評価し軽蔑しているときがあります。そのとき心は既に火の地獄です。軽蔑や怒りの否定的な思いが燃え上がり、自分自身をも殺してしまいそうです。
しかしイエスさまの厳しさは滅ぼすためではなく救うためです。「殺すな」は「生かせ」という積極的な愛の戒めとなりました。「人を生かせ、そして自分をも生かせ」。人を肯定して生かす愛の心と言葉を人にかけなさい、と。
人も自分も生かす新しい愛の心。諦めてはいけません。これを与えるために神さまは100%の人間となられたからです。イエスさまは「殺す心」を全て引き受けて殺されました。そしてこの罪を根本的に消滅させました。そして代わりに人も自分も生かす愛の心を与えられるのです。
聖餐式の懺悔と陪餐によって、イエスさまが滅ぼした「殺す心」を捨て、新しい心を得ましょう。そして愛するイエスさまの戒めを実践しましょう。「人を殺すな。人を生かせ。そして自分をも生かせ。」
「あなたがたは地の塩である…世の光である。」
マタイ福音書第5章13,14節
2023年1月29日 顕現節第5主日(A年)
この有名な箇所の第一印象は「しんどいな」です。自分の心は味気なく、暗く、神さまの働きも微々たるものだからです。
しかしよく読めば、あなたがたは塩や光に「なれ」ではなく、あなたがたは地の塩・世の光「である」とあります。
これを聞いたガリラヤの漁師たちはどれほど喜んだことでしょうか。無学で無能で貧しい自分(1コリ1:26)。そんな自分が全地に神さまの味をつける塩であり、世界に神さまを輝かす光だと言われたのです。しかも何か善い行い、愛の行いを実践する前に、こう祝福されたのです。
新しいモーセとして、イエスさまは神の山から律法を完成させる新しい愛の律法を教えられました。「山上の説教」です。その新しさは喜びです。喜びに基づく愛です。
神さまに愛される喜びがあれば誰の評価も要りません。行いの結果に自分の価値がかかることもありません。なにも恐れることなく、心から自分を人に与えることができます。愛せます。「人にしてもらいたいと思うことは何でも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(7:12)。自分の価値が神さまの喜びにあるのなら、自分中心の押し付けの愛ではなく、相手が中心で、相手が喜ぶ愛を行えます。
喜びから自らを与える生き方。この完成形がイエスさまご自身です。まことの人間となって私たちの間に宿られた神さまです。この人の内に、人間の本当の姿が現れました。まことの「地の塩・世の光」です。それは自分を与えてその愛で全地を味付けし、世界に神さまの愛を輝かす生き方です。十字架のイエスさまです。
このまことの地の塩、世の光であるお方は、復活して今、私たちの心の中にいます。そして喜びから自分を与える愛の実行力を与えておられます。これをしっかり受け取ってイエスさまの真似をするなら、イエスさまのなかで、私たちは本当の人間になり、本当の自分になり、自分の喜びは成就し、完成します。
漁師らは、十字架のイエスさまを見て、地の塩・世の光として生きる本当の意味を悟りました。喜んで自分を与える愛です。毎週主日にパンを割くごとにこの自分を与える愛を実感していきました。そして自分たちも、喜んで自分を与えていきました。福音を語り、弱い人を愛し、殉教にいたるまで自分を与えていきました。こうして地の塩・世の光である喜びが少しずつ広まり、完成し、教会が私たちに至るまで続いてきたのです。
神さまは今も私たちに呼びかけておられます。「あなたがたは、わたしの地の塩・世の光なんだ。」この喜びを生きる力の源にして、自分を与える愛の人生を選びましょう。ご自分をお与えになる神さまの愛を伝えましょう。全地を神さまの愛で味つけましょう。世界を神さまの愛で照らしましょう。そして復活して今も生きておられるイエスさまの中で、喜びの人生を完成させていただきましょう。
「あなたがたは、わたしの地の塩・世の光だ」。
2023年1月29日 A年顕現節第4主日
「幸せって一体なんなんだろう。幸せになりたい…」この願いにイエスさまは神の山から教えました。「神さまを見ることこそ本当の幸せだよ。」
しかし神さまは物や景色ではありません。ただ単にこちらからあちらを眺めるる対象物ではありません。私たちを見つめ返しておられる存在です。人格です。だから幸せとは神さまと見つめあうことです。なんという喜びでしょうか。
それで思うのは食卓での私と妻です。イライラして、喧嘩して、意地悪で、誠実でないときは、顔なんて見たくありません。見ても怖い顔です(お互いに...😩) ですが互いに誠実で優しいときは、何も言わずに見つめ合い、微笑むことさえできます。神さまとそうできるなら、なんと幸せなことでしょうか。
ただ、この幸せが約束されているのは「心の清い人」です。それは誠実な人です。「心の貧しい」自分に誠実であり、謙虚に弱い自分を受け容れる人。自分にも神さまにも透明な人。そして心貧しく無限の愛である神さまを慕い求める人。素直に神さまに憧れる人です。
「それなら私はダメ。心が清くない」と諦めがちです。実際、完全に心が清く、自分の命を与えるほどに父の心に誠実であるのはイエスさまだけです。父なる神さまと見つめ合うことができるのは、イエスさまだけです。
しかし私たちは神さまに創られ、神さまによって新しく清くされた、神さまの似姿です。だからイエスさまの清さと誠実さに結ばれたなら、「イエスさまの目」を通して父なる神さまと見つめ合えます。
この神さまの内なる見つめ合い。この関係が聖霊と呼ばれる愛です。そこから全ての愛が始まり、そして天の国でこの愛が完成します。わたしたちの本質は愛の見つめ合いです。救われるということは、愛で見つめ合えるようになることです。
聖餐の中から主は私たちを見つめて言われます。「わたしを見つめておくれよ。わたしはずっとあなたを見つめているんだよ。そしてわたしと一緒に父を見つめようよ。父はずっとこちらを見つめてくださっていたんだよ。わたしはあなたが汚れて不誠実な間も、ずっとあなたを見つめていたんだよ。」
私たちは神さまのローソクです。人間は神さまを輝かせるために造られ、生まれてきました。自分を燃やして輝くのです。
私たちは神さまのローソクです。しかし純粋で完全ではありません。灯火には不純で黒いススのような欲が混じり、困難の風に吹かれては消えそうになり、命の蝋は消耗して短くなります。そして灯火は小さく弱くなり、絶望して消えます。残るのは、ただの燃えかす。
一年前の今頃、鬱病で入院していた私は「燃えかす」でした。疲れ果て、自信を失い、涙が流し、牧師を辞めようか、と暗い心で思っていました。誰にでも起こる「燃え尽き症候群」です。
しかしクリスマスの神さまは自分が造った人間が燃えかすになることを悲しみます。だからもう一度火を灯そうと、自ら人間になられました。それが人となった神、イエスさまです。
これはローソク職人が自らローソクになって近づき、消えたローソク燃えかすに再び火を灯されるような救いです。
そして神は自ら体験されました。ナザレ村での平凡な生活、家族の喜びと悲しみ、笑いと涙、友情と裏切り、人の罪と死の苦しみ、そして新しい命への復活。
この、人間となった神さまを信じるなら、どんな燃えかすになったとしても必ず再び火をつけていただけます。神の自らの存在で黒いススの欲を拭い取り、困難の風から守り、短くなった命のロウを長くし、私たちを再び輝かせて下さいます。
「さぁ、わたしと一緒に燃えて輝こう。諦めるな。わたしがついているじゃないか。わたしが一緒に燃えてあげるじゃないか。どんな暗闇もわたしが照らしてあげるじゃないか。
あなたはわたしのローソク。大切な、かけがえのない、手造りのローソクだ。だから、さぁ、わたしと一緒に燃えて輝こう。」
「神は私たちと共におられる」
マタイ福音書第1章23節 降臨節第4主日(A年)
赤ちゃんの存在感はとても強いものです。ただそこに居るだけで、周りにいる人は優しくなります。救われます。
13年前に子供が生まれた時も私は病気が悪化して休職していました。弱い自分が情けない日々、泣いたり飲んだり眠ったりしている赤ちゃんの存在に私は救われました。
イエスさまの存在、神さまの存在はそのようなものです。ただ共にいてくれるだけで救われます。すべての悪から解放されます。そして新しく生きる力を与えてくださいます。
降誕物語でよく躓くのが「処女懐胎」です。しかし科学的な説明を求めるなら聖書は躓きだらけです。無からの創造、復活、色んな奇跡物語。しかしこれらが指し示すのは「科学的に可能かどうか」ではなく「神さまはどんな存在で、どう働いたのか」です。処女懐胎の物語では、神さまは人間の限界を遥かに超えて命の恵みを与え「共にいてくださる」お方だということです。
この赤ちゃん、人となった神さまはどんな存在か。それは名前に現れています。「イエス」という名前は「自分の民を罪から救う」です。(1:21) 色んな罪があります。確執、冷たさ、ストレス、絶望、裏切り……しかしその根本は「神から離れ、神と共にいない」ことにあります。
では神さまはどう働いて私たちを罪から救うのか。それが別名の意味、「インマヌエル、神は私たちと共におられる」です。(1:23) 神さまは人間となって私たちの罪を担い、私たちの苦しみと共にいてくださった。十字架の苦しみに至るまで共にいて、私たちを癒し、解放し、救ってくださった。そして復活して今、共にいて、聖餐式を共に祝っておられるのです。
「さぁ祝おう。今ここで、私はあなたと共にいる。神は私たちと共におられる。」
国とは、死後に行って帰ってこない遠い「天国」ではありません。御国が来ますように、と祈る地上に来る神さまの「王としての支配」です。「イエスよ、あなたが王となられるとき…」という意味です。
「支配」には悪いメージがあります。プーチンも金正恩も悪い支配者です。しかし神さまの支配は善い支配です。慈しみと正義、赦しと愛で「治める」ことです。悪の力との戦いを統治し、人を治め、守ります。
私は、コントロールできない執着やエゴに囚われているとき「どうかこんな自分を治めてください。御心のとおりに私を支配してください」と願います。
イエスさまと一緒に死刑にされた犯罪人はこんな気持ちだったのでしょうか。この人は罪を認めています。そして知っています。「隣のお方は無実だ。なのに死刑にされようてしている。ということは他人の罪、私たちの罪のために死んで私たちを救う、神の王なる救い主だ」と。
そして願います。「あなたが王になって治められるとき、私を思い出してください。犯罪人でいい。私を支配してください。私の罪を審き、私に御心を行なってください。忘れ去られるより、すべてを委ねて支配してくださる方が幸せです」と。
するとイエスさまは驚くべき幸せを告げます。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」「死後の遠い未来ではなく、今日ここで、死刑の苦しみの只中でわたしは一緒にいる。わたしはあなたを完全に治めている。支配している。だからできるのだ。わたしはあなたを赦す」と。神の支配に委ねたからこそ赦されたのです。
「楽園」とは罪と悪を神さまが完全に治めた世界。神さまが支配する赦しの世界です。死ぬ前に入ることのできる、神さまが治めて守る、エデンの中庭です。
私たちも、死ぬときには神さまに治めてもらう幸せを願い、祈り歌いましょう。♪イエスよ、みくにに…♪
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