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「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」ヨハネ福音書第3章30節
2023年12月17日 降臨節第3主日(B年)
結婚式のドレスコードでは 白色は NG だそうですね。 喜びの白は花嫁のもの。自分の喜びは横に置いておいて「ほんとに、よかったね」と花嫁の喜びを自分の喜びとします。(2 月の結婚式に参列した方々はそのような気持ちで喜び、もらい泣きしたことでしょう) 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」これは我慢ではなく喜びの言葉です。
洗礼者ヨハネたちはヨルダン川で活動していました。そこにイエスさまも来て洗礼を受け、弟子の一人となったのです。しかしそのイエスが今は自分の伝道活動を始めて「みんながあの人のほうに行 っています。」それで嫉妬して師匠のヨハネに同情したのです。
しかしヨハネはその呆れた勘違いを正しました。イエスさまこそ花婿で、人々は花嫁。自分は花婿の立会人だ。だから花婿と花嫁の喜びに嫉妬するどころか。むしろ花婿と花嫁が結ばれた喜びこそ私の喜びだ。神と結ばれた人々の喜びこそが私の喜びだと。
人の喜びは自分の喜び。それが教会共同体です。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」 (ローマ 12・15) 誰かの結婚の喜びは自分の喜び、誰かの洗礼の恵みは自分の恵み、誰かの死の悲しみは自分の悲しみ。共に聖歌を歌い、共に涙を流し、共に笑みがこぼれ、そして共に旅立ちます。
もちろん、私がそうですが、嫉妬によって人の喜びを自分の喜びにできないときがあります。自分に与えられていない賜物であったり、恵みであったり、幸せの喜びを。
そんな人を嫉妬から解放するために神は人になられました。そして人の嫉妬をその身に集めて十字架刑で殺されました。そうして嫉妬を完全に「衰え」させました。そして 「栄え」の命に復活し、嫉妬の人を喜びの人に変えていかれます。
人の喜びを自分の喜びとする教会共同体の中心、それがイエスさまです。私たちの喜びをご自分の喜びとなさいます。「よかったね。 神さまに愛されてよかったね。神さまに恵まれて、ほんとに、よかったね。」
そしてイエスさまに結ばれて私たちも、そんな教会共同体の一部、自分らしい自分になれるのです。
「十字架であなたの嫉妬は衰え、 復活で喜びは栄える。人の喜びを喜ぶ人になろう。教会共同体になろう」「ほんとに、よかったね」と。
「背負いきれない重荷」マタイ福音書23章3節
2023年11月5日 聖霊降臨後第23主日(特定26)
「神と人への愛」を実行するため十字架への向かう道すがら、イエスさまは律法学者たちを批判されました。
「あなたは、愛の律法、という背負いきれない重荷をまとめて人の方に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本動かさない。人に愛を教えながら自分は実践せず、教えた人が苦しむ愛の重荷を助けることもしない。あなたの行いは人への愛ではなく、は人の目に映る自分への愛だ。聖句箱を大きくし、衣服の房を長くし、上座を好み、先生や父と呼ばれる自分を愛しているだけじゃないか」と。
私たちは聖書から、説教者から、教会から「神と人を愛せ」と教え続けられます。愛が大切なことは、もうイヤというほど頭では分かっているのです。ただ、その人を愛する力が湧いて来なくて苦しいのです。誰も愛の重荷を背負う力を与えてくれない。愛することができないという罪に苦しんでいるのです。
しかしイエスさまは言葉だけの律法学者とは違います。「重荷を負って苦労している者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私の軛は負いやすく私の荷は軽いからである。」(マタイ11・30) イエスさまだけは愛の律法を教えるだけではなく、十字架でその重荷を一緒に背負って下さいます。愛の重荷を担う力を与えて下さいます。
ゲッセマネでの「わたしの心ではなく、あなたのみ心のままに」という祈りをもって愛せない私たちを担い、愛そのものである神に結びつけて、私たちを愛の人に変えてくださいます。
自ら愛し、愛を教え、それだけでなく愛を担うことを助ける。これが「真のイスラエル」「真の人間」です。このお方に結ばれて、私たちも、他の人が神と人を愛せるように、その人を助けましょう。
「わたしが担ったように、あなたも人の愛の重荷を担いあいなさい。助け合いなさい。」
「神のものは神に返しなさい」マタイ福音書第22章22節
2023年10月22日 聖霊降臨後第21主日(特定24)
これは「政教分離」ではなく論敵を打ち負かす場面です。皇帝への納税は是か否か。賛成ならユダヤ人を怒らせ、反対なら反逆罪です。
イエスさまはまず「ローマの銀貨を見せよ」と言い、ファリサイ派がそれを持っているのを見て偽善を暴きます。「お前も納税しているじゃないか!」そして銀貨に皇帝の肖像と「神の子」という銘が彫られていることから偶像崇拝を糾弾します。「この汚らわしい偶像を返せ」と。納税はするが、偶像崇拝はしない、と。
そして深い言葉。「神のものは神に返せ。」私たちは神さまの銀貨です。愛そのものである神さまの姿が刻まれているのです。ローマの銀貨は不平と共に、皇帝へ集められます。神さまの銀貨は本来、喜びと共に神さまへと集められるものです。聖餐式の奉献ではこう祈ります。「すべてのものは主の賜物、わたしたちは主から受けて主に献げたのです。」お金も命も、健康も家族も、自分自身もすべて、本来は神さまのものなのです。
自ら決めて自分を神さまにお返しする生き方。それはとても幸せなものだと思います。愛された愛を神さまにお返しして人を愛する。み言葉の恵みをお返しして、人に愛を語る。育てられた恵みを神にお返しして親を介護する。祈られている恵みをお返しして、神さまに祈る。お返しすればするほど、その人のうちに神さまの似姿が現れます。
もちろん簡単ではありませんが、この幸せをイエスさまが成就して下さいます。
イエスさまは最も人間らしい人間、最も幸せな人として、父にお返しする生き方を尽くされました。死の時にも「私の霊をあなたに委ねます」と自分をお返しし、復活後には、新しい命を委ねて「平和をあなた方に与える」人になりました。このお方の内に、最も人間らしい人間になりましょう。
「さぁ、婚宴においでください」マタイ福音書第22章4節
2023年10月15日 聖霊降臨後第20主日(特定23)
「一緒に喜んで欲しい。」それが結婚披露宴に人を招待する親の気持ちです。二人が誓った絆を共に喜び祝って欲しい。これから末長くこの絆を見守って欲しい、と。
「婚宴の譬え」の王様も喜んで欲しいのです。王様は神様、婚宴は天と地の結婚、つまりイエスさまのうちに到来した神の国を表しています。家来は預言者とイエスさまです。招待を拒んだ客はイスラエルの指導者で神の国を喜ばず、大通りから呼ばれて集められた人々はイエスさまの呼びかけに応えて喜んだ弟子、私たちです。
最初の客は親の「喜んで欲しい」という心を想像もせず自分の都合を優先します。喜びを殺します。怒った王様は都を滅ぼします。(これは紀元70年の史実の反映です)
代わりに王様は町中の「善人も悪人も」皆集めて婚宴を一杯にします。悪人も神の国の婚宴に入れてもらったのです。その条件は一つ。神さまと一緒に喜ぶことです。そして喜んで悔い改めることです。
この喜びが「礼服」です。喜ばず不満に満たされた客が、自分のために披露宴に来る。これを王は見過ごさず追放します。これは無慈悲なのではありません。読者への真剣な呼びかけ、心からの願いです。「喜んでくれ」。(フィリピ4・4)
神の国に招かれた私たちには選択が迫られます。神と一緒に喜ぶか、自分だけを思って不平不満に終始するか。ともすれば誘惑に負けて「こんな状況なのに喜べるはずがない」と諦めがちです。
しかしイエスさまは常に喜びを選ぶお方です。神の支配を喜び、悔い改める悪人を喜び、裏切りと死の苦しみを前にしても「わたしの心ではなく、み心を」喜び、そして復活の命を喜び、それを私たちと分かち合うことを喜ばれるお方です。神とは喜びそのものです。
自分の中には不平不満が詰まっていても、このお方に結ばれるなら、私たちは喜べます。天地の結婚を喜ぶ父と一緒に喜べます。
イエスさまと一緒に喜びの式服を来て、聖餐式が表す、神の国の結婚披露宴に出かけましょう。
神さまにどう見られているか
「どちらが父親の望み通りにしたのか」(マタイ21:31)
2023年10月1日 聖霊降臨後第18主日(特定21) 聖餐式
自意識過剰に加えて、牧師の職業病として、つい「人の目にどう映っているか」を気にしてしまいます。「みんなに好かれる先生になってね」という「呪い」の言葉に縛られて神さまの目を忘れがちです。
今日の「ぶどう園の兄弟」の譬えでは、父親が息子たちに「働いてくれ」と願います。兄は「いやだ」と拒否しますが、あとで考え直して出かけ、弟は「はい」と従うようで、実際には出かけませんでした。
ここで兄は売春婦や徴税人、弟は神殿の祭司とされています。売春婦は人の目には最低な評判です。悪人です。しかし神さまにどう見られているか、つまりどれだけ愛されているかを悟り、悔い改めます。そして神のぶどう園に入り「愛の実り」のために働き始めます。
しかし祭司らは、人の目に重んじられる礼拝には精を出しますが、神さまにどう見られているかには鈍感です。「生きているだけで神に愛されている」ことを悟ってはいません。だから神の愛に悔い改めず、愛の国に入って働きません。
人を不快にさせない。人に喜んでもらう。大切なことです。しかし究極的には「人の目にどう映っているか」より「神さまの目にどう映っているか」が大切です。そして神さまの目にわたしたちは、生きているだけでかけがえのない存在、神の子どもとして愛されているのです。
この愛を伝えるために神さまは一人の人間、ナザレのイエスとなられました。売春婦や徴税人ら「悪い人」を愛して食卓を囲みました。
しかし人の目に重んじられた祭司たちからは「悪人」とされ、弟子たちからも見捨てられて、十字架刑で殺されました。人の目には最も呪われた死に方です。しかしこの方が復活したのです。人の目には処刑される罪人でも、父なる神の目には、死人の中から復活させるほど愛している、「かけがえのない独り子」なのです。
人間は本来、人の目にどう映っていても、神さまの目にはかけがえのない存在として映っています。そして信じて子なる神に結ばれた私たちもまた神の子供となり、愛の実りのために働く人となるのです。
イエスさまが語りかけてこられます。「誰の目が気になるっていうんだ? 父があなたに目を注いでおられる。わたしをずっと見つめてくださった、無限の愛の眼差しで。
「わたしの気前の良さを妬むのか」マタイ福音書第20章15節
2023年9月24日 聖霊降臨後第17主日(特定20) 聖餐式
不公平な話です。
あるぶどう園の主人が日給一万円で朝一番に人を雇います。彼らは熱風にさらされ一日中頑張ります。主人は正午と三時と夕方にも人を雇って働かせました。
そして日が暮れて報酬をもらうとき、主人は夕方に少ししか働いていない者に一万円を渡しました。多く働いた者はもっともらえると思いました。しかし賃金は・・・同じ一万円。不公平だ! 無慈悲だ!
怒り心頭の人々に主人は慈しみをもって語りかけます「友よ・・・わたしの気前の良さを妬むのか。」この呼びかけへの答えは私たち読者一人一人が決めることです。
怒った労働者の中には気づいた人もいたと思います。最も大切な主人の愛を。主人はただ雇用契約を結んだのではなくて、一人一人を心から愛していた。そして働く出番と報われる喜びを与えたかった。そしてこの同じ愛を主人は自分にも注いでくださっていた。だからもう私は彼と比べなくてもいい。主人は自分を愛してくれている。それで十分だ。自分の妬みは主人の愛によって消えた。
私は自分たち四人兄妹への母の愛を思います。私は病気のおかげで他の兄妹のように多くの楽しい時を母と一緒に過ごせません。母が他の兄妹と仲良くしている写真を見ると、妬ましくも思います。しかし母と接するにつれて、自分が妬んでいるのは母の一人一人への愛であり、同じ愛が私にも向けられていると深く知り、私の妬みは母の愛によって消えていきました。
イエスさまも一人の人間として妬むこともあったはずです。なぜモーセやエリヤのように幸せに死ねないのか。しかしモーセやエリヤを愛した父の愛は自分にも向けられていると知ったとき、イエスさまの妬みは消え、父の愛に身を委ねられました。そして父の愛と一つになって人類を深く愛し、ご自分の命を私たちに与えたのです。
神はご自分を与えるほどに私たちを愛しておられる。この愛はどんな妬みをも消していきます。
「借金を帳消しにしてやったのに」マタイ福音書第18章32節
2023年9月17日 聖霊降臨後第16主日(特定19)
クリスチャンは赦しの人。最も単純で、最も困難な道です。
自分が「赦せない人」は誰でしょうか。特にこの箇所では教会の「仲間」です。(18:28)
ただし赦すことは、なかったことにして、忘れることではありません。「もう赦した」と言いながら、忘れることができず、恨みと怒りに縛られていることがあります。抑圧さしている本音に苦しめられます。とくに相手に懺悔の気持ちがないときは、忘れることなどできません。
忘れなくていいのです。相手の犯した罪、自分の傷、そして今も続く苦しみ・・・無理に忘れようとすること自体が、更なる苦しみを産みます。忘れるのではなくそのまま受け容れるのです。そして神さまに委ねるのです。「神さま、私はあの人に傷つけられました。私はあの人が憎いです」。受け容れることが癒しの始まりです。そして委ねることが赦しと自由の始まりです。
ルーズベルト大統領の妻エレノアは、夫が重ねた不倫に対してこう言いました。「私は地獄耳ですから(すべてを知っています)、だから赦しますが、決して忘れません。」夫はもう赦す。しかしあの裏切りのことは決して忘れない。あの苦しみと怒りと復讐心は決して忘れられない。そう素直に認めて、受容れて初めて「それでも、もういい」という赦しが始まります。
赦すとは忘れることではなく、委ねることです。自分に嘘をついて忘れたふりをするのが赦しではありません。自分の心を受け入れて、神に委ねる。それが「心から兄妹を赦す」ことだと思います。(18・35)
譬えの王さまもまた、帳消しにした6000億円もの借金を決して忘れることはありません。自分の財産を削って、赦しを与えたのです。
しかし肝心の家来が帳消しにされた借金を忘れ、恐ろしい顔をして、仲間の借金を取り立てます。これが私たちの本当の顔です。そして最後には審きを受けます。
赦す側も赦された側も、その愛を忘れてはいけないのです。
神さまは私たちの裏切りの罪によって、傷つき苦しまれました。しかし、怒りと復讐をすべて委ねられました。それがイエスさまの十字架です。そして私たちは赦されました。神さまの傷つき委ねる愛に。
だから私たちは聖餐で主の苦しみを忘れず記念します。そして私たちも、忘れなくていいのです、心のすべてを受け容れて、神さまに委ねて、赦しましょう。自由になりましょう。楽になりましょう。
そしてイエスさまと共になりましょう。赦しの人に、クリスチャンに。
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