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共感力とは、「相手の状況や気持ちを推察し、寄り添う能力」だといわれています。
人と人の円滑なコミュニケーションのために、「共感力は重要だ」ともいわれています。
さらに人的支援の従事者にとって「共感力は不可欠」ということになっています。
さて私が、世間の常識に反論を述べてみるのは、いつも通りのことです。
以下、私見。
共感力というのは、ひとつの個性です。
誰にでもあるもので、いろんな共感力があって、使い方も人それぞれ。
共感力という定規で人を計測すれば、その力の高さ低さを表すことができるでしょう。
しかし、なんでも高ければ良い、というわけでもなく。
低いからって、高い人を羨む必要もなく。
高くなるための努力など、論外です。
また共感力は、霊感と言い換えても良さそうです。
見えないものを見る力と言っても良いでしょう。
一般的な共感力の定義でみると、たとえば「殴られて傷ついている人」の「殴られたという状況と、傷ついた気持ちを推察し、その人に寄り添うこと」となりますね。
「殴られて傷ついて」いない自分が、相手の状況と気持ちを推察し、寄り添うわけです。
寄り添う、つまり、心と身体がそばにいる感じ。
過去に殴られた経験があるか。
暴力シーンを見慣れているか。
相手に寄り添う余力があるか。
といった条件によっても、共感力は変化します。
相性というのも、ありますしね。
何より、相手は「共感されたい」のか、という問題があります。
相手の気持ちが「傷ついている」からといって、寄り添ってもらいたいか否かを「共感」できなければ、単なる「おせっかい」です。
感じ取るべきものは、相手が発した言語・非言語の情報だけでなく、相手の周囲にある霊的な存在の意図です。
そして真の共感は、相手から離れたときに、消えるはずなのです。
私たちは、相手の「傷ついた心」に共感したつもりで、実は自分が「傷つけられ」、自分の傷に傷ついていることが多いような気がします。
だから「寄り添った」後も、自分が受けたダメージに苦しむのだと思うわけです。
ーーーーーーーーーーー
先日、ある高名な先生から「いかに共感力が大事か!」というお話を伺いました。先生は、私が「退屈している」という気持ちには共感してくださらず、とても退屈だったので、こんなことを書いてしまいました(笑)
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共感力とは、「相手の状況や気持ちを推察し、寄り添う能力」だといわれています。
人と人の円滑なコミュニケーションのために、「共感力は重要だ」ともいわれています。
さらに人的支援の従事者にとって「共感力は不可欠」ということになっています。
さて私が、世間の常識に反論を述べてみるのは、いつも通りのことです。
以下、私見。
共感力というのは、ひとつの個性です。
誰にでもあるもので、いろんな共感力があって、使い方も人それぞれ。
共感力という定規で人を計測すれば、その力の高さ低さを表すことができるでしょう。
しかし、なんでも高ければ良い、というわけでもなく。
低いからって、高い人を羨む必要もなく。
高くなるための努力など、論外です。
また共感力は、霊感と言い換えても良さそうです。
見えないものを見る力と言っても良いでしょう。
一般的な共感力の定義でみると、たとえば「殴られて傷ついている人」の「殴られたという状況と、傷ついた気持ちを推察し、その人に寄り添うこと」となりますね。
「殴られて傷ついて」いない自分が、相手の状況と気持ちを推察し、寄り添うわけです。
寄り添う、つまり、心と身体がそばにいる感じ。
過去に殴られた経験があるか。
暴力シーンを見慣れているか。
相手に寄り添う余力があるか。
といった条件によっても、共感力は変化します。
相性というのも、ありますしね。
何より、相手は「共感されたい」のか、という問題があります。
相手の気持ちが「傷ついている」からといって、寄り添ってもらいたいか否かを「共感」できなければ、単なる「おせっかい」です。
感じ取るべきものは、相手が発した言語・非言語の情報だけでなく、相手の周囲にある霊的な存在の意図です。
そして真の共感は、相手から離れたときに、消えるはずなのです。
私たちは、相手の「傷ついた心」に共感したつもりで、実は自分が「傷つけられ」、自分の傷に傷ついていることが多いような気がします。
だから「寄り添った」後も、自分が受けたダメージに苦しむのだと思うわけです。
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先日、ある高名な先生から「いかに共感力が大事か!」というお話を伺いました。先生は、私が「退屈している」という気持ちには共感してくださらず、とても退屈だったので、こんなことを書いてしまいました(笑)
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