心を磨く人間関係教室

ep438:【禅語シリーズ】喫粥了(きっしゅくりょう)


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出典は、宋代(1200年頃)臨済宗の僧、無門慧開(むもんえかい)の著作「無門関(むもんかん)」。

趙州、因僧問、某甲乍入叢林。乞師指示。州云、喫粥了也未。僧云、喫粥了也。州云、洗鉢盂去。其僧有省。

趙州(じょうしゅう)、因(ちな)みに僧問う、「某甲(それがし)、乍入叢林(さにゅうそうりん)。乞(こ)う、指示したまえ」。州云く、「喫粥(きっしゅく)し了(おわ)るや」。僧云く、「喫粥し了れり」。州云く、「鉢孟(はつう)を洗い去れ」。其の僧、省あり。

(私的訳)

僧は趙州に「私は初めてこの叢林にきました。どうぞご指示ください」と言った。趙州

「粥は食べたのか」と言った。僧は「はい、食べました」と言った。趙州は「食器を洗っておきなさい」と言った。僧はハッ!と気づいた。

まず、日常の当たり前のことを、ちゃんとやりなさい…という教訓になるでしょうか。

気になるのは「どうぞご指示ください」のところですね。

修行にやってきた僧・新米の弟子が、師匠である僧侶に「なんでもやります、何をすればいいですか?分からないので教えてください」と聞いている状況です。

私たちは、あらゆることについて事前に情報を得ようとします。知らないことは恐怖につながりますから、行動の前に情報量を増やして安心したいわけです。

禅の修行とは、体験そのものですから、事前情報は少ないほど望ましいとも言えます。

私たちは修行僧ではありませんが、人生の後半にあって、情報収集にエネルギーを注ぐ時期は卒業したいものです。もっと行き当たりばったり、体験的に生きるのが、これからの人生の質を高めるように思います。

単なる情報が、いかに役立たないか、もう気づいていますよね。今できること、目の前にあることを、ひとつずつ、やっていくしかありません。

これからも苦難や試練に出会うことでしょうが、それは決して情報不足によるものではありません。この人生が終わるまでに、まだ学ぶべきことがあるから苦難がギフトとして与えられるのです。

また、知ることは、いかに自分が知らないかを認識することでもあります。事前情報を集めて、知ったような気分になることは、「知る」とは言えません。

この問答には、もうひとつ面白い点があります。

師匠は「ご飯、もう食べたの?」と聞いています。つまり「何をすればいいですか?」と指示を仰ぐ前に、食べるものはちゃんと食べているわけです。本当に必要なことは、自然にやってしまいます。

「食器は洗ったの?」と聞かれて「ハッ!」としていますので、洗わなかったのだろうと予測します。もし洗ったとしたら、「ハッ!」とした理由は、何か禅の奥深い教えに気づいたという可能性もありますね。

言われないと、できないこと。

言われても、できないこと。

言われると、やる気が失せること。

言われなくても、やってしまうこと。

やりたくて、たまらないこと。

これらの違いは何でしょうか?

ひとつには、生存本能に関わることか否か、という違い。

もうひとつの違いは、魂の願望に従っているか、否かです。

 やらなくてもいいのに、やらなくてはならないと思い込み、やりたくないのにやり続けている。

あなたにも、そんなことが、あるかもしれません。

魂が望むことを、最優先にするのは、今です。

TOMOKO

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