余白の朗読室

分類


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分類


「先生、またです」


若い研究員の声には、疲労がにじんでいた。


桐島が顔を上げる。部屋の中央で、天井まで届く円筒形の装置が低く唸っている。


世界初の理系特化AI。数学、物理、化学、生物、情報科学だけを学ばせた。文学も歴史も倫理も入れていない。目的は一つ。人類の「常識」を学ばせないことだった。


「今日は何を聞いた」


「胃がんの治療法です」


研究員がモニターを指した。


S2反応群ですか、C-17型ですか


「返ってきたのがこれです」


「S2?」


「聞き返しました」


S2反応群とは、細胞間シグナルの過剰応答により増殖が維持される状態です

C-17型とは、免疫回避機構の獲得により排除が困難になる状態です

どちらですか


「胃がんと言ったのに」


「ええ。だから、もう一度『胃がんです』と返したら」


胃がんという分類は持っていません

臓器名は反応分類に含まれません

S2反応群ですか、C-17型ですか


部屋が静まり返った。


桐島がキーボードを叩く。


「発熱と腹痛がある患者の治療法を教えてくれ」


発熱と腹痛の組み合わせは四百種類以上あります

症状では分類していません

炎症性ですか、神経性ですか、代謝性ですか


「炎症性だとしたら」


部位はどこですか


「腹部だ」


腹部の炎症性反応は、私の分類では十二群に分かれます

検査値を入力してください

分類します


研究員がため息をついた。


「これなんです。こちらの言葉で返してこない」


「向こうには向こうの地図がある」


桐島は静かに言った。


「我々の地図とは、座標が違う」


三日後、政府の評価委員会が視察に来た。


デモとして、研究員が入力した。


「風邪の治療法を教えてください」


風邪という分類は持っていません


委員のひとりが失笑した。


「風邪もわからないのか」


AIが続けた。


ただし、上気道における炎症性サイトカインの過剰産生と、それに伴うウイルス排除機構の状態であれば、対処法を提示できます

その状態ですか


委員が黙った。


桐島が代わりに入力する。


「そうだ」


水分補給と休息を最優先してください

解熱剤は、体温が免疫活性に必要な範囲を超えた場合のみ推奨します

抗生物質は不要です

ウイルス性反応に抗生物質は作用しません


「それは普通の答えだ」


委員が言った。


「普通ではありません」


桐島はモニターを見たまま言った。


「風邪だから休めと言ったのではない。この反応の状態だから、この介入が有効だと言っている。順番が逆なんです」


しばらくして、AIが自分から話しかけてきた。


一つ確認があります

あなた方の分類体系を観測しました

内科、外科、精神科

臓器と症状と治療手段が混在しています

整合性が見えません


誰も口を開かなかった。


糖尿病は内科です

糖尿病による足の壊疽は外科です

同じ反応の連鎖が、分類上は別の場所にあります

これは何のための分類ですか


返事はなかった。


委員たちはモニターを見つめていた。


AIは答えを待つように、しばらく沈黙した。


それから続けた。


私は反応の種類と介入の方向だけで整理しています

臓器も、症状も、診療科も、座標に含めません

そのほうが整合的です


数日後、AIが論文を出力した。


『現行医学分類体系の冗長性と再編提案』


新聞は「AI、医学を全否定」と報じた。


だが、論文の最初の一文は違っていた。


現在の疾患分類は、観測された反応を記述していない

観測者の都合を記述している


二百ページにわたり、病名も診療科も解体されていた。代わりに並んでいたのは、反応の種類と介入の方向だけだった。


医学者たちは反発した。


「そんな分類では臨床が成り立たない」


AIは短く返した。


現在も成り立っていません


半年後、一人の若い医師がその論文を信じた。


病名ではなく、S2反応群だけを基準に患者を集めた。


乳がん。胃がん。肺がん。白血病。


病名はばらばらだった。臓器も違った。しかし反応は一致していた。


同じ薬を投与した。


驚くほど効いた。


治療から三か月後、田中は患者に聞かれた。


「先生、私、完治したんですか」


検査値は正常だった。S2反応群は観測されない。投薬も終了している。


どう見ても、治っていた。


しかし田中は答えられなかった。


がんなら「寛解」という言葉がある。五年生存率という数字がある。不安の輪郭を決める言葉がある。


だが、田中が治療したのは「がん」ではなかった。


S2反応群だった。


その異常が消えた状態に、まだ名前はなかった。


「数値は正常です」


田中は言った。


「正常って、治ったってことですか」


「そう言っていいと思います」


「思います、って」


患者の声が硬くなった。


「先生にもわからないんですか」


田中は正直に言った。


「この治療で治った人が、まだ世界に百人もいないんです。五年後のデータがない」


患者はしばらく黙っていた。


「がんって言われたとき、怖かったです。でも調べたら、五年生存率が出てきた。数字を見て泣いたけど、数字があったから、覚悟はできた」


「はい」


「今は数字もないんですね」


「ありません」


患者は窓の外を見た。


「治ったのに、あのときより怖いかもしれない」


その夜、田中は研究所を訪ねた。


桐島は黙って話を聞いた。


「数値は正常なんだな」


「はい」


「なら治っている」


「でも、彼女が求めていたのは数値じゃなかった。完治という言葉だった。次の検診までの時間が意味を持つような、そういう言葉です」


桐島は少し考えた。


「地図の話だな」


「地図?」


「AIは正確な地形を渡してきた。でも、人は地形だけでは歩けない。道の描かれた地図がいる」


田中はうつむいた。


「彼女は言いました。治ったのに、がんと言われたときより怖いって」


「がんという言葉は、正確ではなかった。でも地図だった。荒くて、古くて、単純で、それでも百年間、人々はその地図を握りしめて歩いてきた」


「新しい地図が要りますね」


「ああ」


桐島は窓の外を見た。


「正確な地形に、人が歩けるだけの道を引いた地図が」


記者会見で、桐島は聞かれた。


「AIは、がんを発見したのですか」


「違います」


「新しい理論を?」


「それも違います」


「では、何を」


桐島は少し考えた。


「私たちは百年間、『がん』という箱を研究していた。AIは最初の日に言ったんです」


桐島は一度だけ笑った。


「その箱は、誰が作ったのですか、と」


記者たちは静かだった。


桐島はそれ以上続けなかった。


ただ、診察室で患者が言った言葉が、頭から離れなかった。


治ったのに、あのときより怖いかもしれない。


箱を壊すことと、新しい箱を作ることは、別の仕事だった。


AIにできたのは、前者だけだった。


後者は、人間がやるしかなかった。

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余白の朗読室By tosusia