2023年 9月 24日 三位一体第16主日
説教題:君の誇りは何?
聖書:フィリピの信徒への手紙 3:1−11、エレミヤ書 4:1−4、マルコによる福音書 10:17−27、詩編 46
説教者:稲葉基嗣
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【説教要旨】
驚いたことに、パウロはフィリピ教会に宛てた手紙の中で、彼自身が誇りと思っていたことについて、7つも挙げました(5−6節)。パウロは自分の能力や出自を誇るためにこのような話をしたわけではありません。これまで自分が心から誇りとして抱き、頼りとしてきたものは、無意味なものに変わってしまった、ということでした。ユダヤ人であることを誇りとすることや、律法を熱心に守ることを誇りとすることは、自分にとって益となることではなく、むしろ損害であり、それらはゴミクズや塵に等しいとまでパウロは言います(7−8節)。
パウロからこの言葉を引き出すきっかけを作ったのは、キリストを信じるユダヤ人の一部の人たちの存在でした。彼らはキリストを信じる異邦人もユダヤ人のように生きるべきと考えました。彼らの考えは、ユダヤ人であることが、救われるために必要であるかのようです。
でも、違いますね。キリストにある救いは、ユダヤ人の誇りを必要としません。
わたしたちが持っているようなあらゆる誇りも、わたしたちが他人を羨んだりしてしまうような特別な何かも、必要ありません。わたしたちに与えられている合言葉は、「神の恵みによって」です。ただ神がわたしたちをキリストを通して愛してくださった。そのことゆえに、すべての人は神の救いへと招かれています。
だから、ユダヤ人の誇りを誰からも押し付けられる必要はありません。パウロは何の条件もなく、ただ神の一方的な恵みによって、すべての人を救いへと招くキリストと出会い、彼が長い間抱いていた、ユダヤ人の誇りを自分の救いのために必要な信頼できるものと考えることをやめました。イエス・キリストこそが救いの望みとなったからです。
キリストとの出会いは、パウロの価値観を大きく変える出来事でした。キリストのみがわたしたちの望みであり、誇りであることは、私たちが持ち合わせる、さまざまな誇りを本来あるべき価値へと戻してくれます。パウロはキリストにのみ望みを置き、キリストのみを誇りとすることによって、律法を神が与えた道しるべという本来あるべき位置へと戻すことができました。
キリストはわたしたちを結びつける絆であり、愛と憐れみと平和を教える方です。誰かをコントロールするのではなく、誰かに仕える生き方を指し示す方です。そして、イエスさまはわたしたちに復活の希望を与える方です。復活の希望には、この世界のあらゆるものの回復が含まれます。それは、私たちが喜びと誇りを抱くけれど、簡単に移ろいゆき、傷つき、朽ち果て、失われてしまうものも含まれているということです。キリストこそ、私たちの希望であり、誇りです。