小山ナザレン教会

キリストにあって、新しく始まる(稲葉基嗣) ー マタイ 1:1−17


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2023年12月17日 待降節第3主日
説教題:キリストにあって、新しく始まる
聖書:マタイによる福音書 1:1−17、創世記 2:1−4、ヨハネの手紙 一 4:10、詩編 85
説教者:稲葉基嗣
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【説教要旨】
マタイは、この系図を14世代ごとに区切ることを通して、ダビデ王の登場と、バビロンへの強制移住を時代の転換点として位置づけています。ダビデについて、ウリヤの妻によって彼の子が産まれたと記すことによって、マタイは、ダビデが犯した過ちを思い起こすようにと、読者に伝えます。ダビデ以降の王たちも、まったく過ちを犯さなかったわけではありません。彼らは神の前に罪を犯し、王の心も、人びとの心も、神から離れていきました。ですから、ダビデの登場は、喜ばしい王国時代のはじまりというよりは、人びとが神から離れていく歴史のはじまりでした。その結果として、バビロンへの強制移住も歴史の転換点として紹介されています。この出来事は、彼らの大切なものをいくつも奪いました。そのため、この系図は決して栄光に溢れる、誇り高いものとは思えません。
系図を読み進めるほどに、この家系はその力を失っていくような感覚を覚えます。注釈をつけずに、アブラハムからキリストまで寄り道せずに名前を記していけば、そのような印象を与えることはなかったでしょう。なのに、なぜマタイはこのような形でキリストを紹介することを選んだのでしょうか?
その鍵は、イエス・キリストがヨセフの子として記されていないことにあります。ヨセフはイエス・キリストと血の繋がった父親ではなかったからです。神がマリアに働きかけることによって、聖霊によって、マリアのお腹の中に、神の子であるイエス・キリストが宿りました。そのため、アブラハムからヨセフまでの流れをイエスさまが完全に引き継いでいるというよりは、その流れを断ち切っています。救い主の訪れは、人間の努力の積み重ねの結果ではありません。神に従う正しい人ばかりが続いたから、神の子が登場したのではありません。神によって、救い主はわたしたちのもとに訪れたことをマタイは強調しています。それは、何度も何度も繰り返される、人間の過ちや罪深さを断ち切るためにです。
マタイはこの系図を「イエス・キリストのはじまりの書」と書いて始めました。神の子イエス・キリストがわたしたちのもとに来たという出来事は、この世界が造られたその始まりに匹敵するほどに重要な、新しい始まりを告げる出来事だと、マタイが受け止めたからなのでしょう。それは、イエス・キリストが罪や過ちで溢れる時代に終わりを告げるからです。そのため、イエス・キリストの訪れは、明らかに大きな時代の転換点です。そしてそれは、喜びと平安に溢れる新しい始まりのときとなりました。
イエスさまは一人ひとりの間に訪れることを通して、罪の支配を終わらせ、神の愛と平和でわたしたちを包み込んでくださいます。小さく、無力かもしれないけれど、キリストが訪れてくださったわたしたちを通して、神はこの世界に手を伸ばしてくださっています。
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