2023年 12月 10日 待降節第2主日
説教題:キリストの訪れを待ち望む
聖書:サムエル記 下 12:1−10、マタイによる福音書 1:1−11、エフェソの信徒への手紙 一 2:8−10、詩編 24
説教者:稲葉基嗣
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【説教要旨】
1世紀後半に生きたキリストを信じるユダヤ人にとって、冒頭に系図を置くこの始まり方はどうやら魅力的なものだったようです。彼らの信仰にとって、とても重要な人びとの名前が数多く並んでいるからです。ここに記されている名前が読まれ、その名前の音が耳に届く度に、彼らは簡単に、名前が記されている人びとについての物語を思い起こすことができました。この系図を通して示された信仰者の物語は、イエス・キリストの系図に続きました。
この系図を注意深く読んでみると、興味深い点がいくつか浮かび上がります。マタイは父親とその息子の名前を繰り返し記すことによって、系図を一本の線として記録しています。けれども、時々その単純なパターンを破っている場合があります。一番目立つのは、4人の女性たちの名前が付け加えられていることでしょう。彼女たちは外国人であったけれども、イスラエルの民に加えられた人たちでした。この4人の女性たちを紹介することを通して、マタイはこの系図が決してユダヤ人だけのためのものではないことを伝えようとしているのでしょう。すべての人のためにキリストが来たことをマタイが伝えているかのようです。
おそらく最も大きな違和感を与えているのは、「ウリヤの妻」という記述でしょう。名前を伏せることによって、マタイはひとりの人物の過ちを明らかにしています。それは、この系図の中でただ一人、王と呼ばれているダビデの過ちです。それは、自分の部下であるウリヤの妻であった、バト・シェバに好意を抱いたダビデが、自分の王としての権力を最大限に用いて、彼女の夫であるウリヤを戦死させ、バト・シェバを自分の妻にしてしまったという事件でした。一体ダビデのどこが理想的な王であり、栄光の王なのかと問い掛けたくなります。
もちろん、ダビデだけが過ちを犯したわけではありません。この系図に記されている一人ひとりの人物の背後に、さまざまな歴史があります。誰もが完璧な信仰者ではありませんでした。そんな、一人ひとりの歩みの中に、神が人となって訪れてくださいました。完璧で信仰深い家系が続いたから、そこに神の子が訪れたわけではありません。むしろ、理想の王とみなされていたダビデを筆頭に、たくさんの過ちが積み重なった先に、イエス・キリストが訪れました。
なぜ、何のためにイエス・キリストは、人の罪や過ちが積み重なった先に、人となって、わたしたちのもとに来られたのでしょうか?それは、わたしたちが愛情深く生きているからではありません。正しく生きたいし、平和を目指したいけれども、どうしても過ちを犯してしまう。どうしても誰かを傷つけてしまう。そんな現実にもがいているわたしたちがいるから、イエスさまはわたしたちのもとに来てくださいました。