2023年8月6日 三位一体後9主日
説教題:キリスト者は死をどのように見つめるのか?
聖書:フィリピの信徒への手紙 1:19−26、コヘレトの言葉7:1−6、マタイによる福音書5:9、詩編34
説教者:稲葉基嗣
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【説教要旨】
「死ぬ日は生まれる日にまさる」というコヘレト7:1の言葉は、命が終わることをきちんと受け止めて、死と向き合うことを促す知恵の言葉です。きょうのパウロの言葉は、彼が自らの死を見つめて、死と向き合った末に綴った言葉と言えるでしょう。
パウロはなぜ、死んでキリストと共にいる方が良いと書いたのでしょうか(23節)。パウロは生きることを完全に諦めてしまったから、このような言葉を綴ったわけではありませんでした。寧ろ、パウロは生きることを願っていました。フィリピ教会の人びとと再会し、語り合うことを願っていました(24−26節)。でも、その願いが叶わないかもしれないと、パウロは考えていました。投獄された状況下にあったパウロにとって、彼の命はいつ奪われるかもわからないものだったからです。でも、迫りくる死は、彼から希望を奪えません。キリストと共にいることを奪うこともできません。その確信を込めて、パウロは次のように書きました。「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです」(21節)
パウロの心からの願いは、世を去ることではなく、キリストと共にあることです。生きることにおいても、死ぬことにおいても、キリストと共にいることが出来るとパウロは確信していました。
パウロにとって、問題であったのは、自分がいなくなってしまった後のフィリピ教会のことです。いつ訪れてもおかしくない自分の死と向き合い、死によっても、希望は決して消えることがないことを思い起こしながら、それでも、パウロは生きることを願い続けました。その意味で、パウロは決して、自分の命を軽く見て、「死ぬことは益なのです」と言ったわけではありませんでした。そのため、わたしたちは、復活の命があるのだから、天の御国が将来与えられているのだからといって、この地上での命を軽く見るようには決して招かれていません。
パウロにとって、死はパウロ個人だけの問題ではありませんでした。悲しいことに、現代社会は死をとても個人的なものとして扱っています。だからこそ、わたしたちは、交わりの中で生き、交わりの中で死を見つめ、交わりの中で死を迎えたいと願います。交わりの中で生きることに喜びがあります。人は一人で生きていける存在として造られていないからです。そして、死を、信仰をもって、この交わりの中で見つめたいと思うのです。