今回のテーマ「怒るって、未熟なの?」
「怒ったほうが負け」「感情的になるのは大人げない」
そんな価値観を、いつのまにか当たり前のように受け入れてきたというキクケン。若い頃から「怒らない努力」を重ねてきた結果、なんだかこれって体に悪い気がすると違和感を持ちつつあることが今回のテーマのきっかけです。
怒りを飲み込むことは成熟なのか。
それとも、自分を守らないまま“いい語り方”を強いられているだけなのか。
アサノミが読んで感動した本の中から「トーンポリシング」という概念に関するコラムを引用しながら
・「もっと冷静に」「建設的に」という言葉の正体
・内容ではなく“言い方”を取り締まるトーンポリシング
・怒りを抑え続けた先に残る、しんどさと罪悪感
について話しました。
引用した本
とびこえる教室: フェミニズムと出会った僕が子どもたちと考えた「ふつう」
星野俊樹 (著),2025,時事通信社
amazon概要欄より「本書では、「ふつう」とは何かを問い直しながら、子どもたちが自分らしく生きるために、教師として何ができるのかを考えていきます。」
※アサノミが2025年で読んだ本の中でいちばんくらいに好きになった本かもしれません。自分を(そしてその上で他者を)尊重する・大切にするとはどういうことなのかを考えるための本でした。
<ラジオの中で引用した部分>
コラム 「赦し」でもなく、「告発」でもなく
第1章から第3章では、私自身の性的マイノリティとしての生きづらさだけでなく、「息子」として抑圧を受けてきた経験を語っています。その語りにおいて私は、文体や語り口をユーモラスなものにはせず、淡々と、時に感情を込めて記すことを意識しました。 もし私が、あの経験をユーモラスに語ってしまえば、「成熟した大人は、自分の傷や葛藤を軽やかに昇華して語れるべきだ」という圧力を強化してしまうのではないかと感じるからです。
(中略)
時に私の語りに対して、「もう少し冷静に語ったほうが読者に届くのではないか」「父への怒りが前に出すぎていて、受け取りづらい」という意見が寄せられることがあります。けれども、そうした意見の多くは、語られている内容そのものではなく、私の語り口やトーンに対する違和感として表明されます。それは、たとえば「感情を抑え、落ち着いて語ること」「誰かを責めずに建設的に語ること」「文学的に昇華された表現であること」を、語り手に求める無意識の規範にも感じられます。
私の語りは、誰かを説得するためのものではありません。また、「読みやすく」整えられるものでもありません。それは、ずっと言葉にできなかった痛みをようやく自分の手元に取り戻し、語る主体としての自分を救う営みです。
それにもかかわらず、「こう語ればもっと共感されますよ」「もう少しやさしいトーンで書けば伝わるのに」といった〝ありがたいご助言〟が寄せられる時、私はまるで、自分の語りが〝調整されるべきもの〟として扱われているような感覚を覚えます。たとえそれが「善意」によるものであっても、語る主体としての私の輪郭がその「善意」によってじわじわと侵食される怖さを感じるのです。 こうした抑圧は、トーンポリシングと呼ばれています。
(中略)
本来は、生き方や経験のちがいから生じた摩擦であるにもかかわらず、このように「どのように語るべきか」という形式やトーンの問題にすり替えられた時、語り手は「適切に語れていない」という理由で黙らされ、場合によっては罪悪感を抱かされてしまう。トーンポリシングとは、まさにそのようにして、語りの実存を抑圧する構造的暴力なのだと思います。
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ことばのこぼねとは、忙しい毎日の中では気にせずスルーした方が、きっと暮らしやすい。でも、どこかでちょっと気になってしまう、些細なひっかかりのこと。
このラジオでは、仕事人間を脱したい2人が、忙しさに抗って「ことばのこぼね」について、話しています。