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By 楠元純一郎&レオー
The podcast currently has 434 episodes available.
"The problems of philosophy" by Bertrand Russell(第14章10段落)
ラジオ収録20240918
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎(法学者) 日本語訳 楠元純一郎 中国語訳 レオー(美術家・録音師) 日本語訳監修 松尾欣治(哲学者)福留邦浩(国際関係学者)
Principles such as the law of gravitation are proved, or rather are rendered highly probable, by a combination of experience with some wholly a priori principle, such as the principle of induction.
重力の法則のような原則は、帰納法のようなまったく先験的な原則との組み合わせによって証明されているし、またはむしろ蓋然性が高い。
像引力定律的原则就是凭借经验和某种完全先验的原则(例如归纳法原则)的结合而得到了证实,或者是表现出很大的或然性的。
Thus our intuitive knowledge, which is the source of all our other knowledge of truths, is of two sorts: pure empirical knowledge, which tells us of the existence and some of the properties of particular things with which we are acquainted, and pure a priori knowledge, which gives us connexions between universals, and enables us to draw inferences from the particular facts given in empirical knowledge.
かくして、我々の他のすべての真実の知識の源泉である我々の直感的な知識には、2種類ある。すなわち、我々が直接知覚した特定の事物の存在とその性質を我々に教えてくれる純粋経験的な知識と、普遍的なものどうしの繋がりを我々に示し、我々が経験的知識から与えられた特定の事実から推論を導き出すことを可能にする純粋な先験的知識である。
因此,我们的直观知识(它是我们所有其他真理知识的根源)就有两种:一种是纯粹的经验知识,它告诉我们有关我们所认识的特殊事物的存在和它们的一些性质,另一种是纯粹的先验知识,它告诉我们关于共相之间的关系,使我们得以根据经验知识中所提供的特殊事实作出推论。
Our derivative knowledge always depends upon some pure a priori knowledge and usually also depends upon some pure empirical knowledge.
我々の派生的な知識は常になんらかの純粋先験的知識に依存しており、通常は純粋経験的知識にも依存している。
我们的派生的知识永远依赖于某种纯粹的先验知识,通常也依赖于某种纯粹的经验知识。
ラジオ収録202400918
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」、ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎 中国語翻訳・朗読 レオー(中国語講師・中国大慶の小学校美術教諭)朗読 松尾欣治(哲学者・大学外部総合評価者)読解者 福留邦浩(国際関係学博士)
私は蝉の声をきき、田圃の蓮華草をおもひしてうす暗く川におちた森の蔭に立つてると兄はたまに一匹二匹のげばちやはやなどとつてきて
「うまくなつた うまくなつた」といひながら私のもつてるびくにいれる。
<蝉(セミ)→カメムシ目、夏になると木とかに留まった成虫の雄が鳴く。閑(しず)かさや 岩に染み入る 蝉の声。げばち→口髭がありナマズに似た淡水魚。はや→中型の鯉科淡水魚。>
我站在河边森林投下的暗影里,听着蝉鸣,想着田野里的紫云英。哥哥偶尔钓上一两条鲶鱼、鲤鱼之类的鱼,会一面自言自语着“越钓越好,越钓越好”,一面将鱼放进我带的鱼篓里。
魚が息のできるやうにびくを水につけて友達みたいな気になつてのぞいてると私みたいに臆病な彼らはちよいとした響きにも驚いて鼻をつく。
<鼻をつく→鼻を打つ。別の意味として、鼻を突く匂い→刺激臭を受ける>
我待鱼儿像朋友一样,在鱼篓里装了足够的水,好让它们能够呼吸。悄悄往鱼篓里一瞧,胆小的鱼儿们听到一丁点儿响动都吓得惊慌失措地挤在一起。
そのあひだにも兄は私が網を打つところを見てゐないといつてわんわんいふ。
<わんわんいう→大声をあげて喚く>
这时,哥哥见我没有欣赏他撒网时的英姿,又大声发起牢骚。
<LeoNRadio日の出 われらのラッセル哲学第178回『哲学の諸問題』
"The problems of philosophy" by Bertrand Russell(第14章9段落②)
ラジオ収録20240911
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎(法学者) 日本語訳 楠元純一郎 中国語訳 レオー(美術家・録音師) 日本語訳監修 松尾欣治(哲学者)福留邦浩(国際関係学者)
But in all cases of knowledge by description, we need some connexion of universals, enabling us, from such and such a datum, to infer an object of a certain sort as implied by our datum.
しかし、記述によるあらゆる知識の場合、我々は普遍的なものとの接続を必要とし、我々がそのようなあれこれのデータからそれにより示唆される対象を推論することを可能にする。
但是,就一切描述的知识而论,我们需要有共相间的一定关系来使我们能从这样或者那样的材料,推论出我们的材料所表示的某种客体。
Thus in regard to physical objects, for example, the principle that sense-data are signs of physical objects is itself a connexion of universals; and it is only in virtue of this principle that experience enables us to acquire knowledge concerning physical objects.
かくして、物理的な対象に関して、例えば、センスデータは物理的な対象の兆候であるという原則は、それ自体、普遍との繋がりである。そして、この原則のおかげでのみ、経験は我々が物理的対象に関する知識を得ることを可能にするのである。
因此,就物理客体而言,比如说,感觉材料是物理客体的表征这个原则,它本身就是共相的一个关系;而且只有借助于这个原则,经验才能使我们获得有关物理客体的知识。
The same applies to the law of causality, or, to descend to what is less general, to such principles as the law of gravitation.
同じようなことが因果律の法則にも当てはまる。または、それほど一般的ではないことに下降して言えば、重力の法則のような原則にも当てはまる。
这也同样适用于因果律,或者降而适用于普遍性较差的原则,如引力定律。
ラジオ収録202400911
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」、ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎 中国語翻訳・朗読 レオー(中国語講師・中国大慶の小学校美術教諭)朗読 松尾欣治(哲学者・大学外部総合評価者)読解者 福留邦浩(国際関係学博士)
その泣き顔をかくすために一所懸命足もとをみつめながら四五軒まばらに並んでる藁屋のなかのひとつにはひる。
<まばらに→数が少なく、間が空いていること。藁屋(わらや)→藁ぶきの家。>
因为不想被人看到我哭,我只好低头拼命地看着脚尖,走进稀稀落落并排着的四五间茅草屋中的一间。
そこは網を貸したり釣道具を売つたりする家で、日にやけた畳のうへにいろいろに塗りわけられた徳利形、椎の実形、円形の泛子、糸巻、釣竿などがならんでゐる。
<徳利(とっくり)→日本酒を入れる首が細く、下が太い容器。椎の実(しいのみ)→食用の木の実。泛子(うき)→魚釣りの道具で餌を一定の水深に垂らし、魚が餌を突けばその様子がわかるもの。釣竿(つりざお)>
这户人家租借渔网,还售卖一些钓鱼用具。被阳光晒褪了颜色的榻榻米上摆着很多东西:有涂成各种颜色的浮标—酒瓶形状的、橡子形状的、圆形的,还有卷线、钓竿等。
庭先を流れてゆく溝にはめだかや蝦が泳ぎ、畦道にはひよろひよろと櫟くぬぎの若木がならび、青田の末は丘をかになつてまつ黒な森がどこまでもつづいてゆく。
<めだか→小型観賞魚。蝦(えび)。畦道(あぜみち)→田んぼと田んぼの間の細い道。櫟(くぬぎ)の木→ブナ科の落葉高木で「どんぐり」はその実>、丘(おか)→小高い土地。
院子前面的水沟里有青鳉鱼和虾儿游弋,田间小路上稀疏地种着几棵麻栎,田野尽头连着山丘,漆黑的森林仿佛无边无际。
兄は網をもち、私はびくをさげ、二人とも跣になつて滝の横手から崖をおりてむかふ岸の窪いところをあさつてあるく。
<びく→ 魚釣りで獲った魚を入れる籠。跣(はだし)→足に履き物を何も履いていない状態。窪い(くぼい)→周りより低くなり、凹(へこ)んでいるところ。漁(あさ)って→獲物を探し求めて>
哥哥拿着渔网,我提着鱼篓,两个人赤着脚从瀑布旁边走下山崖,朝对岸低洼的地方摸索着走。
兄はこなひだまで瓢箪なりにしかならなかつた網が円くひろがるやうになつたといつてほくほくしてるけれどそんなこと面白くもない。
<こなひだ→この間→先日。瓢箪なり→瓢箪状に。ほくほく→嬉しさを隠しきれない様。>
哥哥之前一直撒不好网,总是把网撒成葫芦状,刚学会撒成圆形不久,正在兴头上。可这对我来说却没什么意思。
<LeoNRadio日の出 われらのラッセル哲学第177回『哲学の諸問題』
"The problems of philosophy" by Bertrand Russell(第14章9段落①)
ラジオ収録20240904
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎(法学者) 日本語訳 楠元純一郎 中国語訳 レオー(美術家・録音師) 日本語訳監修 松尾欣治(哲学者)福留邦浩(国際関係学者)
What has happened in the case of space and time has happened, to some extent, in other directions as well.
空間と時間の事例で起きたことは、もちろん、ある程度、他の方向でも起きてきた。
在空间和时间中所发生的情况,在别的方面也已相当程度地出现了。
The attempt to prescribe to the universe by means of a priori principles has broken down; logic, instead of being, as formerly, the bar to possibilities, has become the great liberator of the imagination, presenting innumerable alternatives which are closed to unreflective common sense, and leaving to experience the task of deciding, where decision is possible, between the many worlds which logic offers for our choice.
したがって、アプリオリの(先験的)原則で宇宙のことを処方しようとする試みは失敗した。すなわち、論理は、以前は可能性の障害であったが、想像力の大いなる解放者となった。その際、内省的でない常識に近い多くの選択肢を示しながら、また、決定が可能である場合、論理が我々の選択のために提示する多くの世界の中で、決定の作業を経験に委ねながら、そのようになったのである。
想用先验的原则来给宇宙加以规范的企图已经破产。逻辑已不像过去那样是各种可能性的阻碍,而成为了人们想象力的伟大解放者:它提供无数的方法,都不是不假思索的常识所能够理解的;它并且把抉择的重任留给了经验,在有抉择可能的时候,让经验来在逻辑所提出的那许多世界之中为我们做出抉择。
Thus knowledge as to what exists becomes limited to what we can learn from experience—not to what we can actually experience, for, as we have seen, there is much knowledge by description concerning things of which we have no direct experience.
かくして、存在するものについての知識は、経験から学び得るものに限られるのであって、実際の経験できることに限られるのではないのである。なぜならば、我々はすでに見てきたように、我々が直接経験したことのないことに関する記述による多くの知識が存在するからである。
这样,关于一切存在的知识,就只限于我们从经验所能够知道的东西,——而不是限于我们所能实际经验到的东西了;因为我们已经明了,有许多描述的知识是论及我们并没有直接经验的事物的。
<LeoNRadio日の出 われらのラッセル哲学第176回『哲学の諸問題』
"The problems of philosophy" by Bertrand Russell(第14章8段落)
ラジオ収録20240821
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎(法学者) 日本語訳 楠元純一郎 中国語訳 レオー(美術家・録音師) 日本語訳監修 松尾欣治(哲学者)福留邦浩(国際関係学者)中国語訳監修 孫軼凡
Kant, who first emphasized this contradiction, deduced the impossibility of space and time, which he declared to be merely subjective; and since his time very many philosophers have believed that space and time are mere appearance, not characteristic of the world as it really is.
この矛盾を最初に強調したカントは、空間と時間の不可能性を推論し、そこでは彼はそれらは単に主観的なものにすぎないと断言した。そして彼の時代以来、かなり多くの哲学者たちは、空間と時間は表相にすぎず、それが実在する世界の特徴ではないと信じてきた。
康德是首先强调这一矛盾的人,他演绎出时间和空间的不可能性,他说空间和时间都只是主观的。从他以后,许多哲学家们便相信空间和时间纯粹是现象,不相信它们真就是世界的性质。
Now, however, owing to the labours of the mathematicians, notably Georg Cantor, it has appeared that the impossibility of infinite collections was a mistake.
しかしながら、現在では、とくにGeorg Cantorのような数学者たちの努力のおかげで、無限集合の不可能性は誤りであったことが明らかとなっている。
但是因为现在有了数学家的辛勤研究,其中以乔治·康托尔为最,已经表明无限集聚的不可能性是错误的。
They are not in fact self-contradictory, but only contradictory of certain rather obstinate mental prejudices.
それらは実際に自己矛盾ではなく、むしろある種の頑固な精神的偏見の矛盾だけである。
它们并不是在事实上自相矛盾,而仅仅是某些比较固执的心理偏见的矛盾。
Hence the reasons for regarding space and time as unreal have become inoperative, and one of the great sources of metaphysical constructions is dried up.
かくして、空間と時間を非現実的であるとみなす理由が成り立たなくなり、形而上学的な構築の大きな源泉の一つが枯渇したのである。
因此,把空间和时间认为是不实在的那些理由,已经变得无效;形而上学思想结构的主要泉源之一也已经枯竭了。
ラジオ収録202400821
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」、ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎 中国語翻訳・朗読 レオー(中国語講師・中国大慶の小学校美術教諭)朗読 松尾欣治(哲学者・大学外部総合評価者)読解者 福留邦浩(国際関係学博士)
その滝壺の主ぬしを或者は河童だといつた。或者は六尺もある鯉だといつた。そしていづれも現在見た者から聞いたのだといふ。
<滝壺(たきつぼ)→落ちる水によって深く抉られた穴。河童(かっぱ)→水の妖怪。六尺(ろくしゃく)→一間(いっけん)=およそ1.8メートル>
有人说,这条瀑布的主人是河童,也有人说是一条长余六尺的鲤鱼,而且每个人都说是从亲眼见到的人口中听来的。
その主に見こまれて毎年ひとりふたりの子供は必ず命をおとすのでそれらのあはれなもののためにわづかの砂利浜にいつからか一本の塔婆がたてられた。
<命をおとす→死ぬ。塔婆(とうば)→お墓の周りに立っている細長い板。供養塔。>
他们还说,每年都有一两个孩子因为被瀑布之主看中而命丧于此。小小的沙滩上不知何时修起一座坟墓,听说就是为了这些可怜的孩子建的。
その子供たちはどうしてるだらう。そのうへひろびろとして風に波うつ青田をみれば急に胸がせまつて涙がさつとまぶたにたまる。それは深い深い心の底から湧いてきて堰きとめるすべもなかつた。
<風に波打(う)つ→風により波が立つこと。堰き止(と)める→流れを遮(さえぎ)り止めること。>
那些孩子现在怎么样了?看到田野里的一大片青色浪涛在风中起伏,我忽然觉得胸口发堵,泪水一下子就蓄了满眼。这眼泪从心底很深的地方涌出,根本止不住。
<LeoNRadio日の出 われらのラッセル哲学第175回『哲学の諸問題』
"The problems of philosophy" by Bertrand Russell(第14章7段落)
ラジオ収録20240731
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎(法学者) 日本語訳 楠元純一郎 中国語訳 レオー(美術家・録音師) 日本語訳監修 松尾欣治(哲学者)福留邦浩(国際関係学者)中国語訳監修 孫軼凡
Again, if we take any two points on a line, it seems evident that there must be other points between them however small the distance between them may be: every distance can be halved, and the halves can be halved again, and so on ad infinitum.
また、一つの線の上に二つの点をとるならば、それらの点の間には別の点があるはずであるということは明らかであろう。それらの点の間のどんなに小さな距離であっても、すべての距離は半分にすることができ、その半分もまた半分にすることができ、そして永遠にそれが続く。
再者,倘使我们在一条线段上取两个点,不论这两点间的距离如何小,显然它们之间还存在着一些别的点;每一距离都可以分成两半,这两半又都可以再分成两半,这样便可以无限地二分下去。
In time, similarly, however little time may elapse between two moments, it seems evident that there will be other moments between them.
時間においても同様に、二つの瞬間の間にはどんなに短い時間が過ぎようとも、それらの間には別の瞬間があるということは明らかであろう。
就时间而论,也是类似的。在两个瞬间之间,不论经历的时间如何短促,显然似乎在它们之间还存在着一些别的瞬间。
Thus space and time appear to be infinitely divisible.
かくして、空間と時間は無限に分割できるように思われる。
这样,空间和时间便似乎都是可以无限分割的。
But as against these apparent facts—infinite extent and infinite divisibility—philosophers have advanced arguments tending to show that there could be no infinite collections of things, and that therefore the number of points in space, or of instants in time, must be finite.
しかし、無限の広がりおよび無限の分割可能性の明らかな事実に対して、哲学者たちは、事物の無限の集合はあり得ず、それゆえ空間の点の数または時間の瞬間の数は有限のはずであるということを示す傾向の議論を進めてきた。
但是,哲学家们所已经提出来的论证却是和这些显而易见的事实——即空间和时间的无限广袤和无限的可分割性——相反,他们想要指明事物的集聚不可能是无限的,因此,空间中的点的数目,或者时间中的瞬间的数目,便必然是有限的。
Thus a contradiction emerged between the apparent nature of space and time and the supposed impossibility of infinite collections.
かくして、空間と時間の見かけの性質と無限の集合は不可能であるとの仮定の間には矛盾が生じた。
这样,在空间时间的表面性质和假设中的无限集聚的不可能性,这两者之间便出现了一个矛盾。
ラジオ収録202400731
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」、ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎 中国語翻訳・朗読 レオー(中国語講師・中国大慶の小学校美術教諭)朗読 松尾欣治(哲学者・大学外部総合評価者)読解者 福留邦浩(国際関係学博士)
そこからだらだらと川上へのぼれば堰があり、そのうへに青く淀んだ水が三方にわかれてひとつは樋に、ひとつはむかふ岸の森のなかへ、残りは堰の口からどどんどどんと地響きをうたせてころがりおちる。
<堰(せき)→川や湖などで水の流れを堰き止めたり、流量を調整したりするもの。堰を切ったように。淀(よど)んだ→流れがない、水底に沈んでたまる。>
从那里拖拖拉拉地走到河的上游,有一座堤堰,堤堰里深深蓄着的蓝色水流分成三股,一股流向导水木片,一股流向对岸的森林,剩下的从堤口“咕咚咕咚”地聒噪着跌下去,砸得地面轰隆隆地响。
躍りあがる飛沫しぶき、湧きたつ泡、逆にはひあがる崖、横つとびにとんでゆく水をみるとたまらない寂しさ恐しさに襲はれてただもう はやく帰りたい、はやく帰りたい と思ふ。
<崖(がけ)>
溅起的水沫、涌起的水泡、逆向生长的山崖,我看到这水沫横飞的场景,就感到无止境的寂寞和恐惧,只想要赶快回家。
われらの文化 キンホン文化雅談 20240727
賀偉先生 日本中医鍼灸研究会会長 「精誠堂」院長
インタビュアー 楠元純一郎 法学者 松尾欣治 哲学者
「大医精誠」作詞作曲 楠元純一郎
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