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序)「最後の晩餐」と聖餐式
・「最後の晩餐」の記事は4つの福音書に記されるが、その書き方はそれぞれ独特であり、福音書ごとのメッセージに心を向けることが重要。
・聖餐式のルーツは「最後の晩餐(過越の食事)」にあるが、それはこの食事の単なる再現ではない。出エジプトを思い起こすのではなく、キリストのみわざを思い起こし、未来の「神の国」を期待する。
・「種を入れないパン」は「罪のないイエス様」を象徴する。「種入りのパン」は新しい時代の始まりを祝うのにふさわしい。どちらも意味深い。
1)裂かれた主の「からだ」
・マルコの福音書の特徴は「取りなさい。これはわたしのからだです」という部分にあり「食べなさい」が書かれていない。「取ること」の象徴性(現実を受け入れること)が重視されている。
・「わたしのからだ」とは、イエス様の物理的肉体だけではなく、イエス様の骨肉=家族、親族を象徴できる。Cf.パウロは後に「教会はキリストのからだ」と教える。12 弟子はイスラエル(神の民)の象徴だった。
・「裂かれる」というのは、便宜的なことではなく象徴的。主の家族が引き裂かれることが、この食事に前後して起こる。主のからだを引き裂くのは「私だけは特別」という罪の力である。
2)もう一度、1つにするための「杯」
・「最後の晩餐」では、1 つの杯が飲み回された。
・「神の国」は出し抜き合う世界ではなく、助け合い、支え合い、愛し合う世界である。
・引き裂かれる主のからだから流れ出、注ぎ出される血が、神の国を完成に向かわせる。
結)「取りなさい。これはわたしのからだです。」との招き
・聖餐式において、すべての人が神の家族へと招かれていることが語られる。同時に、すべての人が主のからだを引き裂いていることも受け止めるように呼びかけられている。
・個人主義のはびこる社会では、個人のうちに存在する引き裂く力は目立たなくなっている。しかし、教会の中で顕在化する。
・「取りなさい」との呼び声に従うなら、一つの杯・希望へと招かれる。
By キリスト教たんぽぽ教会序)「最後の晩餐」と聖餐式
・「最後の晩餐」の記事は4つの福音書に記されるが、その書き方はそれぞれ独特であり、福音書ごとのメッセージに心を向けることが重要。
・聖餐式のルーツは「最後の晩餐(過越の食事)」にあるが、それはこの食事の単なる再現ではない。出エジプトを思い起こすのではなく、キリストのみわざを思い起こし、未来の「神の国」を期待する。
・「種を入れないパン」は「罪のないイエス様」を象徴する。「種入りのパン」は新しい時代の始まりを祝うのにふさわしい。どちらも意味深い。
1)裂かれた主の「からだ」
・マルコの福音書の特徴は「取りなさい。これはわたしのからだです」という部分にあり「食べなさい」が書かれていない。「取ること」の象徴性(現実を受け入れること)が重視されている。
・「わたしのからだ」とは、イエス様の物理的肉体だけではなく、イエス様の骨肉=家族、親族を象徴できる。Cf.パウロは後に「教会はキリストのからだ」と教える。12 弟子はイスラエル(神の民)の象徴だった。
・「裂かれる」というのは、便宜的なことではなく象徴的。主の家族が引き裂かれることが、この食事に前後して起こる。主のからだを引き裂くのは「私だけは特別」という罪の力である。
2)もう一度、1つにするための「杯」
・「最後の晩餐」では、1 つの杯が飲み回された。
・「神の国」は出し抜き合う世界ではなく、助け合い、支え合い、愛し合う世界である。
・引き裂かれる主のからだから流れ出、注ぎ出される血が、神の国を完成に向かわせる。
結)「取りなさい。これはわたしのからだです。」との招き
・聖餐式において、すべての人が神の家族へと招かれていることが語られる。同時に、すべての人が主のからだを引き裂いていることも受け止めるように呼びかけられている。
・個人主義のはびこる社会では、個人のうちに存在する引き裂く力は目立たなくなっている。しかし、教会の中で顕在化する。
・「取りなさい」との呼び声に従うなら、一つの杯・希望へと招かれる。

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