林芙美子 新版放浪記 第二部

林 芙美子 放浪記第二部 その7


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参照テキスト:青空文庫図書カード№1813
音声再生時間:23分25秒
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(八月×日)
海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤(すす)けた小さい町の屋根が提灯(ちょうちん)のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、山は爽かな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。
貧しい私達親子三人が、東京行きの夜汽車に乗った時は、町はずれに大きい火事があったけれど……。「ねえ、お母さん! 私達の東京行きに火が燃えるのは、きっといい事がありますよ。」しょぼしょぼして隠れるようにしている母達を、私はこう言って慰めたものだけれど……だが、あれから、あしかけ六年になる。私はうらぶれた体で、再び旅の古里である尾道へ逆もどりしているのだ。気の弱い両親をかかえた私は、当もなく、あの雑音のはげしい東京を放浪していたのだけれど、ああ今は旅の古里である尾道の海辺だ。海添いの遊女屋の行燈(あんどん)が、椿(つばき)のように白く点々と見えている。見覚えのある屋根、見覚えのある倉庫、かつて自分の住居であった海辺の朽ちた昔の家が、五年前の平和な姿のままだ。何もかも懐しい姿である。少女の頃に吸った空気、泳いだ海、恋をした山の寺、何もかも、逆もどりしているような気がしてならない。
尾道を去る時の私は肩上げもあったのだけれど、今の私の姿は、銀杏返(いちょうがえ)し、何度も水をくぐった疲れた単衣(ひとえ)、別にこんな姿で行きたい家もないけれど、とにかくもう汽車は尾道にはいり、肥料臭い匂いがしている。
船宿の時計が五時をさしている。船着場の待合所の二階から、町の燈火(あかり)を見ていると、妙に目頭が熱くなってくるのだった。訪ねて行こうと思えば、行ける家もあるのだけれど、それもメンドウクサイことなり。切符を買って、あと五十銭玉一ツの財布をもって、私はしょんぼり、島の男の事を思い出していた。落書だらけの汽船の待合所の二階に、木枕を借りて、つっぷしていると、波止場に船が着いたのか、汽笛の音がしている。波止場の雑音が、フッと悲しく胸に聞えた。「因の島行きが出やんすで……」歪ゆがんだ梯子段を上って客引が知らせに来ると、陽にやけた縞のはいった蝙蝠(こうもり)と、小さい風呂敷包みをさげて、私は波止場へ降りて行った。
「ラムネいりやせんか!」
「玉子買うてつかアしゃア。」
物売りの声が、夕方の波止場の上を行ったり来たりしている。紫色の波にゆれて因の島行きのポッポ船が白い水を吐いていた。漠々たる浮世だ。あの町の灯の下で、「ポオルとヴィルジニイ」を読んだ日もあった。借金取りが来て、お母さんが便所へ隠れたのを、学校から帰ったままの私は、「お母さんは二日程、糸崎へ行って来る云うてであった……」と嘘をついて母が、侘(わび)し気にほめてくれた事もあった。あの頃、町には城ヶ島の唄や、沈鐘の唄が流行はやっていたものだ。三銭のラムネを一本買った。
夜。
「皆さん、はぶい着きやんしたで!」
船員がロープをほどいている。小さな船着場の横に、白い病院の燈火が海にちらちら光っていた。この島で長い事私を働かせて学校へはいっていた男が、安々と息をしているのだ。造船所で働いているのだ。
「この辺に安宿はありませんでしょうか。」
運送屋のお上さんが、私を宿屋まで案内して行ってくれた。糸のように細い町筋を、古着屋や芸者屋が軒をつらねている。私は造船所に近い山のそばの宿へついた。二階の六畳の古ぼけた床の上に風呂敷包みをおくと、私は雨戸を開けて海を眺めた。明日は尋ねて行ってみようとおもう。私は財布を袂(たもと)に入れると、ラムネ一本のすきばらのまま潮臭い蒲団に長く足を延ばした。耳の奥の方で、蜂(はち)の様なブンブンと云う喚声があがっている。
(八月×日)
枕元をごそごそと水色の蟹(かに)が這(は)っている。町にはストライキの争議があるのだそうだ。
「会いに行きなさるというても、大変でごじゃんすで、それよりも、社宅の方へおいでんさった方が……」女中がそう云っている。私は心細くかまぼこを噛かんでいた。社員達は全部書類を持って倶楽部(クラブ)へ集まっていると云うことだ。食事のあと、私はぼんやりと戸外へ出てみた。万里の城のように、うねうねとコンクリートの壁をめぐらしたドックの建物を山の上から見降ろしていると、旗を押したてて通用門みたいなところに黒蟻(くろあり)のような職工の群が唸っていた。山の小道を子供を連れたお上さんやお婆さんが、点々と上って来る。八月の海は銀の粉を吹いて光っているし、縺(もつ)れた樹の色は、爽かな匂いをしていた。
「尾道から警官がいっぱい来たんじゃと。」
髪を後になびかせた若いお上さん達が、ドックを見下ろして話しあっていた。
「しっかりやれッ!」
「負けなはんな!」
「オーイ……」真昼間の、裸の職工達の肌を見ていると、私も両手をあげて叫んだ。旅の古里の言葉で、「しっかりやってつかアしゃア。」
「御亭主があそこにおってんな? うちの人は、こうなったら、もう死んでもええつもりでやる云いよりやんした。」
私はわけもなく涙があふれていた。事務員をしたりしてあんなにつくした私の男が、大学を出ると、造船所の社員になって、すました生活をしている、ここから見ていると、あんな門位はすぐ崩れてしまうようにもろく見えているのに……。
「職工は正直でがんすけん、皆体で打(ぶ)っつかって行きゃんさアね。」
とうとう門が崩れた。蜂が飛ぶように黒点が散った。光った海の上を、小舟が無数に四散して行っている。
潮鳴の音を聞いたか!
茫漠と拡がった海の上の叫喚を聞いたか!
煤けたランプの灯を女房達に託して
島の職工達は磯の小石を蹴散(けち)らし
夕焼けた浜辺へ集まった。
遠い潮鳴の音を聞いたか!
何千と群れた人間の声を聞いたか!
ここは内海の静かな造船港だ
貝の蓋を閉じてしまったような
因の島の細い町並に
油で汚れたズボンや菜っぱ服の旗がひるがえっている
骨と骨で打ち破る工場の門の崩れる音
その音はワアン、ワアンと
島いっぱいに吠えていた。
青いペンキ塗りの通用門が勢いよく群れた肩に押されると
敏活なカメレオン達は
職工達の血と油で色どられた清算簿をかかえて
雪夜の狐のようにランチへ飛び乗って行ってしまう
表情の歪んだ固い職工達の顔から
怒りの涙がほとばしって
プチプチ音をたてているではないか
逃げたランチは
投網(とあみ)のように拡がった巡警の船に横切られてしまうと
さてもこの小さな島の群れた職工達と逃げたランチの間は
只一筋の白い水煙に消されてしまう。
歯を噛み額を地にすりつけても
空は――昨日も今日も変りのない平凡な雲の流れだ
そこで頭のもげそうな狂人になった職工達は
波に呼びかけ海に吠え
ドックの破船の中に渦をまいて雪崩(なだれ)ていった。
潮鳴の音を聞いたか!
遠い波の叫喚を聞いたか!
旗を振れッ!
うんと空高く旗を振れッ
元気な若者達が
光った肌をさらして
カララ カララ カララ
破れた赤い帆の帆綱を力いっぱい引きしぼると
海水止の堰(せき)を喰い破って
帆船は風の唸る海へ出て行った
それ旗を振れッ
勇ましく歌を唄えッ
朽ちてはいるが元気に風を孕(はら)んだ帆船は
白いしぶきを蹴って海へ出てゆく
寒冷な風の吹く荒神山の上で呼んでいる
波のように元気な叫喚に耳をそばだてよ!
可哀想な女房や子供達が
あんなにも背伸びをして
空高く呼んでいるではないか!
遠い潮鳴の音を聞いたか!
波の怒号するのを聞いたか
山の上の枯木の下に
枯木と一緒に双手(もろて)を振っている女房子供の目の底には
火の粉のように海を走って行く
勇ましい帆船がいつまでも眼に写っていたよ。
宿へ帰ったら、蒼あおざめた男の顔が、ぼんやり煙草を吸って待っていた。
「宿の小母さんが迎いに来て、ビックリしちゃった。」
「…………」
私は子供のように涙が溢あふれた。何の涙でもない。白々とした考えのない涙が、あとからあとからあふれて、沈黙(だま)ってしきいの所に立って長いこと泣いていた。
「ここへ来るまでは、すがれたらすがってみようと思って来たけれど、宿の小母さんの話では、奥さんも子供もあるって聞きましたよ。それに、町のストライキを見たら、どうしても、貴方に会って、はっきりとすがらなくてはいけないと思いました。」
沈黙っている二人の耳に、まだ喚声が遠く聞えて来る。
「今晩町の芝居小屋で、職工達の演説があるから、一寸覗いてみなくては……」男は、自分の腕時計を床の上に投げると、そそくさと町へ出てしまった。私は、ぼんやりと部屋で、しゃっくりを続けながら、高価な金色の腕時計をそっと自分の腕にはめてみた。涙があふれた。東京で苦労した事や、裸で門を壊していた昼間の職工達の事が、グルグルしていて、時計の白い腹を見ていると目が廻りそうだった。
(八月×日)
宿の娘と連れだって浜を歩いた。今日でここへ来て一週間にもなる。
「くよくよおしんさんな。」私は何もかもつまらなくなって呆然としていると、宿の娘は私を心配してくれている。何も考えてやしない。何も考えようがないのだ。昨日は高松のお母さんへ電報ガワセを送ったし、私はこうして海の息を吸っているし、男がハラハラしようとしまいと、それはお勝手なのだ。私から何もかもむさぼり取ったひとなのだから、この位の事がいったい何だろうと思う。――尾道の海辺で、波止場の石垣に、お腹(なか)を打ちつけては、あのひとの子供を産む事をおそれていたけれど、今はそれもいじらしいお伽話(とぎばなし)になってしまった。昨日の電報ガワセで義父や母が一息ついてくれればいいと思うなり。浜辺を洗髪をなびかせながら歩いていると、町で下駄屋をしているあのひとの兄さんが、私をオーイオーイと後から呼びかけて来た。久し振りに見る兄さん、尾道の私の家に、枝になった蜜柑(みかん)や、オレンジを持って来てくれたあの姿そのままで笑いかけている。
「わしに、何も言わんもんじゃけん、苦労させやした。」
海が青く光っている。宿の娘をかえして、兄さんと二人で町はずれの兄さんの家へ歩いて行った。海近くまで、田が青々していて蜜柑山がうっそうと風に鳴っていた。
「あいつが気が弱いもんじゃけん。」
陽にやけた侘し気な顔をして兄さんは私をなぐさめてくれるなり。家では嫂(ねえ)さんが、米をついていた。牛が一匹優しい眼をして私を見ている。私は、どうしてもはいりたくなかったのだ。何だか、こんなところへ来た事さえも淋しくなっている。白い道のつづいている浜路を、私はあとしざりをするように、宿へ帰って行った。
(八月×日)
朝風をあびて、私は島へさよならとハンカチを振っている。どこへ行っても、どこにも仕様のない事だらけなのだ。東京へ帰ろう。私の財布は五六枚の十円札でふくらんでいた。兄さんの家でもらったお金とデベラの青籠と、風呂敷包みをかかえて、私は板子を渡って尾道行きの船へ乗った。
「気をつけてのう……」
「ええ! 兄さん、もうストライキはすんだんですか。」
「職工の方が折れさせられて手打ちになったが、太いもんにゃかなわないよ。」
あのひとも寝ぶそくな目をさせて波止場へ降りてきてくれていた。「体が元気だったら、又いつか会えるからね。」そんなことを小さい声で云った。船の中には露に濡れた野菜がうずたかく積んであった。
ああ何だか馬鹿になったような淋しさである。私は口笛を吹きながら遠く走る島の港を見かえっていた。岸に立っている二人の黒点が見えなくなると、静かなドックの上には、ガアン、ガアンと鉄を打つ音がひびいていた。尾道についたら半分高松へ送ってやりましょう。東京へかえったら、氷屋もいいな、せめて暑い日盛りを、ウロウロと商売をさがして歩かないように、この暮は楽に暮したいものだ。私は体を延ばして走る船の上から波に手をひたしていた。手を押しやるようにして波が白くはじけている。五本の指に藻(も)がもつれた糸のようにからまって来る。
「こんどのストライキは、えれえ短かかったなあ――」
「ほんまに、どっちも不景気だけんな。」
船員達が、ガラス窓を拭きながら話している。私はもう一度ふりかえって、青い海の向うの島を眺めていた。
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林芙美子 新版放浪記 第二部By えぷろん