参照テキスト:青空文庫図書カード№1813
音声再生時間:24分55秒
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(三月×日)
階下の台所に降りて行くと、誰が買って来たのか、アネモネの花の咲いた小さな鉢が窓ぶちに置いてあった。汚い台所の小窓に、スカートをいっぱい拡げた子供のような可愛い花の姿である。もう四月が来ると云うのに、雪でも降りそうなこの寒い空、ああ、今日は何か温かいものが食べたいものなり。
「お姉さんいますか?」
敷きっぱなしの蒲団の上で内職に白樺しらかばのしおりの絵を描いていると、学校から帰って来たベニがドアを開けてはいって来た。
「一寸! とてもいい仕事がみつかったわ、見てごらんなさいよ……」
ベニは小さく折った新聞紙を私の前に拡げると、指を差して見せた。
――地方行きの女優募集、前借可……。
「ね、いいでしょう、初め田舎からみっちり修業してかかれば、いつだって東京へ帰れるじゃないの、お姉さんも一緒にやらない。」
「私? 女優って、あんまり好きな商売じゃないもの、昔、少し素人芝居をやった事があるけど、私の身に添わないのよ、芝居なんて……時に、あんたがそんな事をすれば、パパが心配しないかしら?」
「大丈夫よ、あんな不良パパ、この頃は、七号室のお妾さんにあらいこをやったりなんかしてるわ。」
「そんな事はいいけど、パパも刑事が来たりなんかしちゃいけないわね。」
お昼、ベニの履歴書を代筆してやる。下の一番隅っこの暗い部屋を借りている大工さんの子供が、さつま芋を醤油で炊いたのを持って来てくれた。
ベニのパパが紹介をしてくれた白樺のしおり描きはとても面白い仕事だ。型を置いては、泥絵具をベタベタ塗りさえすればいいのである。クロバーも百合ゆりもチュウリップも三色菫(すみれ)も御意のままに、この春の花園は、アパートの屋根裏にも咲いて、私の胃袋を済度してくれます。激しい恋の思い出を、激しい友情を、この白樺のしおり達はどこへ持って行くのだろうか……三畳の部屋いっぱい、すばらしいパラダイスです。
夜。
春日町の市場へ行って、一升の米袋を買って来る。階下まで降りるのがめんどくさいので、三階の窓でそっと炊いた。石屋のお上さんは、商売物の石材のように仲々やかましくて朝昼晩を、アパートを寄宿舎のようにみまわっているのだ。四十女ときたら、爪の垢(あか)まで人のやることがしゃくにさわるのかも知れない。フン、こんな風来(ふうらい)アパートなんて燃えてなくなれだ! 出窓で、グツグツ御飯を炊いていると、窓下の画塾では、夜学もあるのか、カーテンの蔭かげから、コンテを動かしている女の人の頭が見える。自分の好きな勉強の出来る人は羨(うらやま)しいものだ。同じ画描きでも私のは個性のないペンキ屋さんです。セルロイドの色塗りだってそうだったし……。明日は、いいお天気だったら、蒲団を干してこのだらしのない花園をセイケツにしましょう。
(三月×日)
昨夜、夜更けまで内職をしたので、目が覚めたのが九時ごろだった。蒲団の裾にハガキが二通来ている。病気をして入院をしていると云う松田さんのと、来る×日、万世橋駅にお出向きを乞う、白いハンカチを持っていて下さると好都合ですと云った風な私宛のハガキだった。心当りが少しもないので、色々考えた末、不図、ベニの事を思いついた。パパにも知れないように、一人者の私の名を利用したのかも知れないと思う。手に白いハンカチを持っていて下されば好都合ですか……淫売にでも叩きうられるのが関の山かも知れない。かつて、本郷の街裏で見た、女アパッシュの群達の事が胸に浮んできた。ベニは粗野で、生(き)のままの女だから、あんな風な群に落ちればすさまじいものだと思う。
今日は風強し。上野の桜は咲いたかしら……桜も何年と見ないけれど、早く若芽がグングン萌(も)えてくるといい。夕方ベニのパパが街から帰ってくる。
「林さん! 坊やはどこへ行きましたでしょうね。」
「さあ、何だか、今日は方々を歩くんだと云ってましたが……」
「しようがないな、寒いのに。」
「ベニちゃんは、もう学校を止したんですか、小父さん。」
外套(がいとう)をぬぎぬぎ私のドアをあけたベニのパパは、ずるそうに笑いながら、
「学校は新学期から止さしますよ。どうも落ちつかない子供だから……」
「おしいですわね、英語なんか出来たんですのに……」
「母親がないからですよ、一ツ林さんマザーになって下さい。」
「小父さんと年をくらべるより、ベニちゃんとくらべた方が早いんですからね。いやーアよ。」
「だってお半長右衛門だってあるじゃありませんか。」
私はいやらしいので沈黙ってしまった。こんな仕事師にかかっては口を動かすだけ無駄かも知れない。やがてベニが、鼻を真紅まっかにして帰って来る。
「お姉さん! うどんの玉、沢山買って来たから上げるわ。」
「ええありがとう、パパ早く帰って来たわよ。」
ベニは片目をとじてクスリと笑うと、立ちあがって、壁越しに「パパ!」と呼んだ。
「ハガキが来ていてよ、白いハンカチを持ってって書いてあるわ、香水ぐらいつけて行くといいわよ……」
「あらひどい!」
七号室ではお妾さんが三味線を鳴らしている。河のそばを子供達が、活動芝居をいましめてなんて、日曜学校の変なうたをうたって通った。仕事、二百六十枚出来る。松田さん、どんな病気で入院をしているのかしら、遠くから考えると、涙の出るようないいひとなのだけれども、会うとムッとする松田さんの温情主義、こいつが一番苦手なのだ。その内、何か持って見舞に行こうと思う。夜、龍之介の「戯作三昧(ざんまい)」を読んだ。魔術、これはお伽噺(とぎばなし)のようにセンチメンタルなものだった。印度人と魔術、日本の竹藪(たけやぶ)と雨の夜か……。霧つよく、風が静かになる、ベニは何か唄っている。
(四月×日)
ベニの帰らない日が続く。
「別に心配してくれるなって、坊やからハガキが来ましたが、もう四日ですからね。」
ベニのパパは心配そうに目をしょぼしょぼさせていた。
今日は陽気ないいお天気である。もう病院を出たかも知れないと思いながら、植物園裏の松田さんの病院へ行った。そこは外科医院だった。工場のかえり、トラックにふれたのだと云って、松田さんは肩と足を大きくほうたいをしていた。
「三週間位でなおるんだそうです。根が元気だから何でもないんです。」
松田さんは、由井正雪(ゆいしょうせつ)みたいに髪を長くしていて、寒気がする程、みっともない姿だった。昔昔、毒草と云う映画を見たけれど、あれに出て来るせむし男にそっくりだと思った。ちょいとした感傷で、この人と一緒になってもいいと云うことを、よく考えた事だが厭だった。外の事でも真実は返せる筈だ、蜜柑(みかん)をむいてあげる。
病院から帰って来ると、ベニが私の万年床に寝ころがっていた。帯も足袋もぬぎ散らかしている。ベニははかなげに天井を見ていた。疲れているようだ。彼女は急速度に変った女の姿をしている。
「パパには沈黙っててね。」
「御飯でもたべる?」
ベニは自分の部屋には誰もいないのに、妙に帰るのをおっかながっていた。
夕刊にはもう桜が咲いたと云うニュースが出ていた。尾道の千光寺の桜もいいだろうとふっと思う。あの桜の並木の中には、私の恋人が大きい林檎(りんご)を噛かんでいた。海添いの桜並木、海の上からも、薄紅(あか)い桜がこんもり見えていた。私は絵を描くその恋人を大変愛していたのだけれど、私が早い事会いに行けないのを感違いして、そのひとは町の看護婦さんと一緒になってしまった。ベニのように、何でもガムシャラでなくてはおいてけぼりを喰ってしまう。桜はまた新らしい姿で咲き始めている。――やがてベニはパパが帰って来たので、帯と足袋を両手にかかえると、よその家へ行くようにオズオズ帰って行った。別に呶鳴り声もきこえては来ない。あのパパは、案外ケンメイなのかも知れないと思う。ベニが捨てて行った紙屑を開いてみたら、宿屋の勘定がきだった。
十四円七十三銭也。八ツ山ホテル、品川へ行ったのかしら、二人で十四円七十銭、しかもこれが四日間の滞在費、八ツ山ホテルと云う歪んだ風景が目に浮んでくる。
(四月×日)
ひからびた、鈴蘭(すずらん)もチュウリップも描き飽きてしまった。白樺のしおりを鼻にくっつけると、香ばしい山の匂いがする。山の奥深いところにこの樹があるのだと云うけれど、その葉っぱはどんなかたちをしているのかしら……粛々としたその姿を胸に描きながら、私は毎日こうして、泥絵具をベタベタ塗りたくっているのだ。
軒一つの境いで、風景や静物や裸体を描いている画学生と、型の中へ泥絵具を流してはそれで食べている女と、――新聞を見ると、アルスの北原という人の家で女中が欲しいと出ている、勉強をさせてくれるかしらとも思う。もっとうんと叩かれたい。方針のない生活なんて、本当はたまらないのだから……、明日は行ってみよう。午後、ベニが風呂へ行った留守に、白いハンカチの男が私をたずねて来た。ベニはどんな風に云っているのかしら、階下へ降りてゆくと、頭を油で光らせて、眼鏡をかけた男がつったっていた。「私がそうですが。」部屋に通ると、背の高い男はすぐひざを組んで煙草に火をつけ出した。
「ホウ絵をお描きになるんですね。」
「いいえ内職ですのよ。」
およそこんな男は大きらいだ。この男の眼の中には、人を莫迦ばかにしたところがある。内職をする女の姿が、チンドン屋みたいに写っているのかも知れない。
「昨日、信越の旅から来たのですが、東京はあたたかですね。」
「そうですか。」
新劇はとてもうけると云う話だった。ベニ、外出先からすぐ帰って来る。彼女は女らしく、まるで鳴らないほおずきみたいに円くかしこまって返事をしていた。
「貴女も、芝居をなすったそうですが、芝居の方を少し手伝って戴けませんか、女優が足りなくって弱っているんです。」
「女優なんて、とても柄じゃアありませんよ。自分だけの事でもやっと生きてますのに、舞台に立つなンて私にはメンドクサクてとても出来ません。」
「仲々貴女は面白い事を言いますね。」
「そうですかね。」
「これから、しょっちゅう遊びに来させてもらいます。いいですか。」
十七八の娘って、どうしてこうシンビ眼がないのだろう。きたない男の前で、ベニはクルクルした眼をして沈黙っているのだ。夜、ベニは私の部屋に泊ると云う、パパは帰って来ない。あまり淋しいので、チエホフの「かもめ」を読んだ……。
ベニは寝床の中から「面白いわね。」と云っている。
「自分で後悔しなきゃ、何やってもいいけれど、取るにたらないような感傷に溺(おぼれ)て、取りかえしのつかない事になるのは厭ね、ベニちゃんは、とても生一本で面白い人だけれど、案外貴女の生一本は内べんけいじゃなかったの、色んな事に目が肥えるまでは用心はした方がいいと思ってよ。」
彼女は薄っすらと涙を浮べて、まぶしそうに電気を見つめていた。
「だって逃げられなかったのよ。」
「八ツ山ホテルってところでしょう。」
「うん。」
ベニはけげんな顔をしていた。
「男の払った勘定書を持って来るのいやだわ、赤ちゃんみたいねえ、――十四円七十三銭って、こんなもの落してみっともないわよ。」
「あの男、花柳はるみを知ってるだの何だのってでたらめばかり言うのよ、からかってやるつもりだったの……」
「貴女がからかわれたんでしょう、御馳走さま。」
パパのいないベニは淋しそうだった。河水の音を聞いて、コドクを感じたものか、ベニは指を噛んで泣いている。
(四月×日)
朝。
東中野と云うところへ新聞を見て行ってみた。近松さんの家にいた事をふっと思い出した。こまめそうな奥さんが出てくる。お姑(しゅうとめ)さんが一人ある由。
「別に辛い事もないけれど、風呂水がうちじゃ大変なんですよ。」
暗い感じの家だった。北原白秋氏の弟さんの家にしては地味なかまえである。行ってみる間は何か心が燃えながら、行ってみるとどかんと淋しくなる気持ちはどうした事だろう。所詮(しょせん)、私と云う女はあまのじゃくかも知れないのだ。柳は柳。風は風。
ベニのパパ、詐欺横領罪で引っぱられて行ったとの事だった。帰ってみると、一人の刑事が小さな風呂敷包みをこしらえていた。ベニは呆然としてそれを見ている。アパート中の内儀さん達が、三階のベニの部屋の前に群れてべちゃくちゃ云っている。人情とは、なぜかくも薄きものか、部屋代はとるだけ取って、別にこのアパートには迷惑も掛けていないと云うのに、あらゆる末梢(まっしょう)的な事を大きくネツゾウして、お上さん達は口々に何かつぶやいているのだ。刑事が帰って行くと、台所はアパートじゅうの女が口から泡を飛ばしているようだった。お妾さんは平然と三味線を弾いている。スッとした女なり。
「お姉さん! 私金沢へ帰るのよ、パパからの言伝(ことづけ)なの、そこはねえ、皆他人なんですのよ、だってまだ見ない親類なんて、他人より困るわねえ、本当はかえりたくないのよ。」
「そうね、こっちにいられるといいのにね。」
「アパートじゃ、じき立ちのいてくれって云うし……」
夜、ベニと貧しい別宴を張った。
「忘れないわ、二三年あっちでくらして、ぜひ東京へ来ようと思うの、田舎の生活なんて見当がつかないわ。」二人は、時間を早めに上野駅へ行く。
「桜でも見に行きましょうか?」
二人は公園の中を沈黙って歩いている。こんなに肩をくっつけて歩いている女が、もう二時間もすれば金沢へ行く汽車の中だなんて、本当にこのベニコがみじめでありませんようにと私は神様に祈っている。私はオールドローズの毛糸の肩掛をベニの肩にかけてやった。
「まだ寒いからこれをあげるわ。」
上野の桜、まだ初々たり