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今朝暗いうちに、七号室で撫でまわして想像した時には、三十前後の鬚武者ひげむしゃで、人相の悪いスゴイ風采だろうと思っていたが、それから手入れをしてもらったにしても、掌てのひらで撫でまわした感じと、実物とが、こんなに違っていようとは思わなかった。
眼の前の等身大の鏡の中に突立っている私は、まだやっと二十歳はたちかそこいらの青二才としか見えない。額の丸い、腮あごの薄い、眼の大きい、ビックリしたような顔である。制服がなければ中学生と思われるかも知れない。こんな青二才が私だったのかと思うと、今朝からの張り合いが、みるみる抜けて行くような、又は、何ともいえない気味の悪いような……嬉しいような……悲しいような……一種異様な気持ちになってしまった。
その時に背後うしろから若林博士が、催促をするように声をかけた。
「……いかがです……思い出されましたか……御自分のお名前を……」
私は冠かむりかけていた帽子を慌てて脱いだ。冷めたい唾液つばをグッと嚥のみ込んで振り返ったが、その時に若林博士が、先刻から私を、色々な不思議な方法でイジクリまわしている理由がやっと判明わかった。若林博士は私に、私自身の過去の記念物を見せる約束をしたその手初めに、まず私に、私の過去の姿を引合わせて見せたのだ。つまり若林博士は、私の入院前の姿を、細かいところまで記憶していたので、その時の通りの姿に私を復旧してから、突然に私の眼の前に突付けて、昔の事を思い出させようとしているのに違いなかった。……成る程これなら間違いはない。たしかに私の過去の記念物に相違ない。……ほかの事は全部、感違いであるにしても、これだけは絶対に間違いようのないであろう、私自身の思い出の姿……。
しかしながら……そうした博士の苦心と努力は、遺憾ながら酬むくいられなかった。初めて自分の姿を見せ付けられて、ビックリさせられたにも拘わらず、私は元の通り何一つ思い出す事が出来なかった……のみならず、自分がまだ、こんな小僧っ子であることがわかると、今までよりも一層気が引けるような……馬鹿にされたような……空恐ろしいような……何ともいえない気持ちになって、われ知らず流れ出した額の汗を拭き拭きうなだれていたのであった。
その私の顔と、鏡の中の顔とを、依然として無表情な眼付きで、マジマジと見比べていた若林博士は、やがて仔細らしく点頭うなずいた。
「……御尤ごもっともです。以前よりもズット色が白くなられて、多少肥ってもおられるようですから、御入院以前の感じとは幾分違うかも知れませぬ……では、こちらへお出でなさい。次の方法を試みてみますから……。今度は、きっと思い出されるでしょう……」
私は新らしい編上靴を穿はいた足首と、膝頭ひざがしらを固こわばらせつつ、若林博士の背後に跟随くっついて、鶏頭けいとうの咲いた廊下を引返して行った。そうして元の七号室に帰るのかと思っていたら、その一つ手前の六号室の標札を打った扉の前で、若林博士は立ち止まって、コツコツとノックをした。それから大きな真鍮しんちゅうの把手ノッブを引くと、半開きになった扉の間から、浅黄色のエプロンを掛けた五十位の附添人らしい婆さんが出て来て、叮嚀に一礼した。その婆さんは若林博士の顔を見上げながら、
「只今、よくお寝やすみになっております」
と慎しやかに報告しつつ、私たちが出て来た西洋館の方へ立ち去った。
若林博士は、そのあとから、用心深く首をさし伸ばして内部なかに這入った。片手で私の手をソッと握って、片手で扉を静かに閉めると、靴音を忍ばせつつ、向うの壁の根方ねかたに横たえてある、鉄の寝台に近付いた。そうしてそこで、私の手をソッと離すと、その寝台の上に睡っている一人の少女の顔を、毛ムクジャラの指でソッと指し示しながら、ジロリと私を振り返った。
私は両手で帽子の庇ひさしをシッカリと握り締めた。自分の眼を疑って、二三度パチパチと瞬まばたきをした。
……それ程に美しい少女が、そこにスヤスヤと睡っているのであった。
その少女は艶々つやつやした夥おびただしい髪毛かみのけを、黒い、大きな花弁はなびらのような、奇妙な恰好に結んだのを白いタオルで包んだ枕の上に蓬々ぼうぼうと乱していた。肌にはツイ私が今さっきまで着ていたのとおんなじ白木綿の患者服を着て、胸にかけた白毛布の上に、新しい繃帯ほうたいで包んだ左右の手を、行儀よく重ね合わせているところを見ると、今朝早くから壁をたたいたり呼びかけたりして、私を悩まし苦しめたのは、たしかにこの少女であったろう。むろん、そこいらの壁には、私が今朝ほど想像したような凄惨な、血のにじんだ痕跡を一つも発見する事が出来なかったが、それにしても、あれ程の物凄い、息苦しい声を立てて泣き狂った人間とは、どうしても思えないその眠りようの平和さ、無邪気さ……その細長い三日月眉、長い濃い睫毛まつげ、品のいい高い鼻、ほんのりと紅をさした頬、クローバ型に小さく締まった唇、可愛い恰好に透きとおった二重顎ふたえあごまで、さながらに、こうした作り付けの人形ではあるまいかと思われるくらい清らかな寝姿であった。……否。その時の私はホントウにそう疑いつつ、何もかも忘れて、その人形の寝顔に見入っていたのであった。
すると……その私の眼の前で、不思議とも何とも形容の出来ない神秘的な変化が、その人形の寝顔に起り初めたのであった。
新しいタオルで包んだ大きな枕の中に、生うぶ毛げで包まれた赤い耳をホンノリと並べて、長い睫毛を正しく、楽しそうに伏せている少女の寝顔が、眼に見えぬくらい静かに、静かに、悲しみの表情にかわって行くのであった。しかも、その細長い眉や、濃い睫毛や、クローバ型の小さな唇の輪廓りんかくのすべては、初めの通りの美しい位置に静止したままであった。ただ、少女らしい無邪気な桃色をしていた頬の色が、何となく淋さびしい薔薇ばら色に移り変って行くだけであったが、それだけの事でありながら、たった今まで十七八に見えていた、あどけない寝顔が、いつの間にか二十二三の令夫人かと思われる、気品の高い表情に変って来た。そうして、その底から、どことなく透きとおって見えて来る悲しみの色の神々こうごうしいこと……。
私は又も、自分の眼を疑いはじめた。けれども、眼をこすることは愚か、呼吸いきも出来ないような気持になって、なおも瞬またたき一つせずに、見惚みとれていると、やがてその長く切れた二重瞼の間に、すきとおった水玉がにじみ現われはじめた。それが見る見るうちに大きい露の珠たまになって、長い睫毛にまつわって、キラキラと光って、あなやと思ううちにハラハラと左右へ流れ落ちた……と思うと、やがて、小さな唇が、微かすかにふるえながら動き出して、夢のように淡い言葉が、切れ切れに洩れ出した。
「……お姉さま……お姉さま……すみませんすみません。……あたしは……妾あたしは心からお兄様を、お慕い申しておりましたのです。お姉様の大事な大事なお兄様と知りながら……ずっと以前から、お慕い申して……ですから、とうとうこんな事に……ああ……済みません済みません……どうぞ……どうぞ……許して下さいましね……ゆるして……ね……お姉様……どうぞ……ね……」
それは、そのふるえわななく唇の動き方で、やっと推察が出来たかと思えるほどの、タドタドとした音調であった。けれども、その涙は、あとからあとから新らしく湧き出して、長い睫毛の間を左右の眥めじりへ……ほのかに白いコメカミへ……そうして青々とした両鬢りょうびんの、すきとおるような生はえ際ぎわへ消え込んで行くのであった。
しかし、その涙はやがて止まった。そうして左右の頬に沈んでいた、さびしい薔薇色が、夜が明けて行くように、元のあどけない桃色にさしかわって行くにつれて、その表情は、やはり人形のように動かないまま、健康すこやかな、十七八の少女らしい寝顔にまで回復して来た。……僅かな夢の間に五六年も年を取って悲しんだ。そうして又、元の通りに若返って来たのだな……と見ているうちにその唇の隅には、やがて和なごやかな微笑さえ浮かみ出たのであった。
私は又も心の底から、ホ――ッと長い溜め息をさせられた。そうして、まだ自分自身が夢から醒め切れないような気持ちで、おずおずと背後うしろをふり返った。
私の背後に突立った若林博士は、最前さっきからの通りの無表情な表情をして、両手をうしろにまわしたまま、私をジッと見下していた。しかし内心は非常に緊張しているらしい事が、その蝋石ろうせきのように固くなっている顔色でわかったが、そのうちに私が振り返った顔を静かに見返すと、白い唇をソッと嘗なめて、今までとはまるで違った、響ひびきの無い声を出した。
「……この方の……お名前を……御存じですか」
私は今一度、少女の寝顔を振り返った。あたりを憚はばかるように、ヒッソリと頭を振った。
……イイエ……チットモ……。
という風に……。すると、そのあとから追っかけるように若林博士はモウ一度、低い声で囁ささやいた。
「……それでは……この方のお顔だけでも見覚えておいでになりませんか」
私はそう云う若林博士の顔を振り仰いで、二三度大きく瞬まばたきをして見せた。
……飛んでもない……自分の顔さえ知らなかった私が、どうして他人の顔を見おぼえておりましょう……
といわんばかりに……。
すると、私がそうした瞬間に、又も云い知れぬ失望の色が、スウット若林博士の表情を横切った。そのまま空虚になったような眼付きで、暫くの間、私を凝視していたが、やがて又、いつとなく元の淋しい表情に返って、二三度軽くうなずいたと思うと、私と一緒に、静かに少女の方に向き直った。極めて荘重な足取で、半歩ほど前に進み出て、恰あたかも神前で何事かを誓うかのように、両手を前に握り合せつつ私を見下した。暗示的な、ゆるやかな口調で云った。
「……それでは……申します。この方は、あなたのタッタ一人のお従妹いとこさんで、あなたと許嫁いいなずけの間柄になっておられる方ですよ」
「……アッ……」
と私は驚きの声を呑んだ。額ひたいを押えつつ、よろよろとうしろに、よろめいた。自分の眼と耳を同時に疑いつつカスレた声を上げた。
「……そ……そんな事が……コ……こんなに美しい……」
「……さよう、世にも稀まれな美しいお方です。しかし間違い御座いませぬ。本年……大正十五年の四月二十六日……ちょうど六個月以前に、あなたと式をお挙げになるばかりになっておりました貴方あなたの、たった一人のお従妹さんです。その前の晩に起りました世にも不可思議な出来事のために、今日まで斯様かようにお気の毒な生活をしておられますので……」
「……………………」
「……ですから……このお方と貴方のお二人を無事に退院されまするように……そうして楽しい結婚生活にお帰りになるように取計らいますのが、やはり、正木先生から御委托を受けました私の、最後の重大な責任となっているので御座います」
若林博士の口調は、私を威圧するかのように緩ゆるやかに、且かつ荘重であった。
By 前川工作室今朝暗いうちに、七号室で撫でまわして想像した時には、三十前後の鬚武者ひげむしゃで、人相の悪いスゴイ風采だろうと思っていたが、それから手入れをしてもらったにしても、掌てのひらで撫でまわした感じと、実物とが、こんなに違っていようとは思わなかった。
眼の前の等身大の鏡の中に突立っている私は、まだやっと二十歳はたちかそこいらの青二才としか見えない。額の丸い、腮あごの薄い、眼の大きい、ビックリしたような顔である。制服がなければ中学生と思われるかも知れない。こんな青二才が私だったのかと思うと、今朝からの張り合いが、みるみる抜けて行くような、又は、何ともいえない気味の悪いような……嬉しいような……悲しいような……一種異様な気持ちになってしまった。
その時に背後うしろから若林博士が、催促をするように声をかけた。
「……いかがです……思い出されましたか……御自分のお名前を……」
私は冠かむりかけていた帽子を慌てて脱いだ。冷めたい唾液つばをグッと嚥のみ込んで振り返ったが、その時に若林博士が、先刻から私を、色々な不思議な方法でイジクリまわしている理由がやっと判明わかった。若林博士は私に、私自身の過去の記念物を見せる約束をしたその手初めに、まず私に、私の過去の姿を引合わせて見せたのだ。つまり若林博士は、私の入院前の姿を、細かいところまで記憶していたので、その時の通りの姿に私を復旧してから、突然に私の眼の前に突付けて、昔の事を思い出させようとしているのに違いなかった。……成る程これなら間違いはない。たしかに私の過去の記念物に相違ない。……ほかの事は全部、感違いであるにしても、これだけは絶対に間違いようのないであろう、私自身の思い出の姿……。
しかしながら……そうした博士の苦心と努力は、遺憾ながら酬むくいられなかった。初めて自分の姿を見せ付けられて、ビックリさせられたにも拘わらず、私は元の通り何一つ思い出す事が出来なかった……のみならず、自分がまだ、こんな小僧っ子であることがわかると、今までよりも一層気が引けるような……馬鹿にされたような……空恐ろしいような……何ともいえない気持ちになって、われ知らず流れ出した額の汗を拭き拭きうなだれていたのであった。
その私の顔と、鏡の中の顔とを、依然として無表情な眼付きで、マジマジと見比べていた若林博士は、やがて仔細らしく点頭うなずいた。
「……御尤ごもっともです。以前よりもズット色が白くなられて、多少肥ってもおられるようですから、御入院以前の感じとは幾分違うかも知れませぬ……では、こちらへお出でなさい。次の方法を試みてみますから……。今度は、きっと思い出されるでしょう……」
私は新らしい編上靴を穿はいた足首と、膝頭ひざがしらを固こわばらせつつ、若林博士の背後に跟随くっついて、鶏頭けいとうの咲いた廊下を引返して行った。そうして元の七号室に帰るのかと思っていたら、その一つ手前の六号室の標札を打った扉の前で、若林博士は立ち止まって、コツコツとノックをした。それから大きな真鍮しんちゅうの把手ノッブを引くと、半開きになった扉の間から、浅黄色のエプロンを掛けた五十位の附添人らしい婆さんが出て来て、叮嚀に一礼した。その婆さんは若林博士の顔を見上げながら、
「只今、よくお寝やすみになっております」
と慎しやかに報告しつつ、私たちが出て来た西洋館の方へ立ち去った。
若林博士は、そのあとから、用心深く首をさし伸ばして内部なかに這入った。片手で私の手をソッと握って、片手で扉を静かに閉めると、靴音を忍ばせつつ、向うの壁の根方ねかたに横たえてある、鉄の寝台に近付いた。そうしてそこで、私の手をソッと離すと、その寝台の上に睡っている一人の少女の顔を、毛ムクジャラの指でソッと指し示しながら、ジロリと私を振り返った。
私は両手で帽子の庇ひさしをシッカリと握り締めた。自分の眼を疑って、二三度パチパチと瞬まばたきをした。
……それ程に美しい少女が、そこにスヤスヤと睡っているのであった。
その少女は艶々つやつやした夥おびただしい髪毛かみのけを、黒い、大きな花弁はなびらのような、奇妙な恰好に結んだのを白いタオルで包んだ枕の上に蓬々ぼうぼうと乱していた。肌にはツイ私が今さっきまで着ていたのとおんなじ白木綿の患者服を着て、胸にかけた白毛布の上に、新しい繃帯ほうたいで包んだ左右の手を、行儀よく重ね合わせているところを見ると、今朝早くから壁をたたいたり呼びかけたりして、私を悩まし苦しめたのは、たしかにこの少女であったろう。むろん、そこいらの壁には、私が今朝ほど想像したような凄惨な、血のにじんだ痕跡を一つも発見する事が出来なかったが、それにしても、あれ程の物凄い、息苦しい声を立てて泣き狂った人間とは、どうしても思えないその眠りようの平和さ、無邪気さ……その細長い三日月眉、長い濃い睫毛まつげ、品のいい高い鼻、ほんのりと紅をさした頬、クローバ型に小さく締まった唇、可愛い恰好に透きとおった二重顎ふたえあごまで、さながらに、こうした作り付けの人形ではあるまいかと思われるくらい清らかな寝姿であった。……否。その時の私はホントウにそう疑いつつ、何もかも忘れて、その人形の寝顔に見入っていたのであった。
すると……その私の眼の前で、不思議とも何とも形容の出来ない神秘的な変化が、その人形の寝顔に起り初めたのであった。
新しいタオルで包んだ大きな枕の中に、生うぶ毛げで包まれた赤い耳をホンノリと並べて、長い睫毛を正しく、楽しそうに伏せている少女の寝顔が、眼に見えぬくらい静かに、静かに、悲しみの表情にかわって行くのであった。しかも、その細長い眉や、濃い睫毛や、クローバ型の小さな唇の輪廓りんかくのすべては、初めの通りの美しい位置に静止したままであった。ただ、少女らしい無邪気な桃色をしていた頬の色が、何となく淋さびしい薔薇ばら色に移り変って行くだけであったが、それだけの事でありながら、たった今まで十七八に見えていた、あどけない寝顔が、いつの間にか二十二三の令夫人かと思われる、気品の高い表情に変って来た。そうして、その底から、どことなく透きとおって見えて来る悲しみの色の神々こうごうしいこと……。
私は又も、自分の眼を疑いはじめた。けれども、眼をこすることは愚か、呼吸いきも出来ないような気持になって、なおも瞬またたき一つせずに、見惚みとれていると、やがてその長く切れた二重瞼の間に、すきとおった水玉がにじみ現われはじめた。それが見る見るうちに大きい露の珠たまになって、長い睫毛にまつわって、キラキラと光って、あなやと思ううちにハラハラと左右へ流れ落ちた……と思うと、やがて、小さな唇が、微かすかにふるえながら動き出して、夢のように淡い言葉が、切れ切れに洩れ出した。
「……お姉さま……お姉さま……すみませんすみません。……あたしは……妾あたしは心からお兄様を、お慕い申しておりましたのです。お姉様の大事な大事なお兄様と知りながら……ずっと以前から、お慕い申して……ですから、とうとうこんな事に……ああ……済みません済みません……どうぞ……どうぞ……許して下さいましね……ゆるして……ね……お姉様……どうぞ……ね……」
それは、そのふるえわななく唇の動き方で、やっと推察が出来たかと思えるほどの、タドタドとした音調であった。けれども、その涙は、あとからあとから新らしく湧き出して、長い睫毛の間を左右の眥めじりへ……ほのかに白いコメカミへ……そうして青々とした両鬢りょうびんの、すきとおるような生はえ際ぎわへ消え込んで行くのであった。
しかし、その涙はやがて止まった。そうして左右の頬に沈んでいた、さびしい薔薇色が、夜が明けて行くように、元のあどけない桃色にさしかわって行くにつれて、その表情は、やはり人形のように動かないまま、健康すこやかな、十七八の少女らしい寝顔にまで回復して来た。……僅かな夢の間に五六年も年を取って悲しんだ。そうして又、元の通りに若返って来たのだな……と見ているうちにその唇の隅には、やがて和なごやかな微笑さえ浮かみ出たのであった。
私は又も心の底から、ホ――ッと長い溜め息をさせられた。そうして、まだ自分自身が夢から醒め切れないような気持ちで、おずおずと背後うしろをふり返った。
私の背後に突立った若林博士は、最前さっきからの通りの無表情な表情をして、両手をうしろにまわしたまま、私をジッと見下していた。しかし内心は非常に緊張しているらしい事が、その蝋石ろうせきのように固くなっている顔色でわかったが、そのうちに私が振り返った顔を静かに見返すと、白い唇をソッと嘗なめて、今までとはまるで違った、響ひびきの無い声を出した。
「……この方の……お名前を……御存じですか」
私は今一度、少女の寝顔を振り返った。あたりを憚はばかるように、ヒッソリと頭を振った。
……イイエ……チットモ……。
という風に……。すると、そのあとから追っかけるように若林博士はモウ一度、低い声で囁ささやいた。
「……それでは……この方のお顔だけでも見覚えておいでになりませんか」
私はそう云う若林博士の顔を振り仰いで、二三度大きく瞬まばたきをして見せた。
……飛んでもない……自分の顔さえ知らなかった私が、どうして他人の顔を見おぼえておりましょう……
といわんばかりに……。
すると、私がそうした瞬間に、又も云い知れぬ失望の色が、スウット若林博士の表情を横切った。そのまま空虚になったような眼付きで、暫くの間、私を凝視していたが、やがて又、いつとなく元の淋しい表情に返って、二三度軽くうなずいたと思うと、私と一緒に、静かに少女の方に向き直った。極めて荘重な足取で、半歩ほど前に進み出て、恰あたかも神前で何事かを誓うかのように、両手を前に握り合せつつ私を見下した。暗示的な、ゆるやかな口調で云った。
「……それでは……申します。この方は、あなたのタッタ一人のお従妹いとこさんで、あなたと許嫁いいなずけの間柄になっておられる方ですよ」
「……アッ……」
と私は驚きの声を呑んだ。額ひたいを押えつつ、よろよろとうしろに、よろめいた。自分の眼と耳を同時に疑いつつカスレた声を上げた。
「……そ……そんな事が……コ……こんなに美しい……」
「……さよう、世にも稀まれな美しいお方です。しかし間違い御座いませぬ。本年……大正十五年の四月二十六日……ちょうど六個月以前に、あなたと式をお挙げになるばかりになっておりました貴方あなたの、たった一人のお従妹さんです。その前の晩に起りました世にも不可思議な出来事のために、今日まで斯様かようにお気の毒な生活をしておられますので……」
「……………………」
「……ですから……このお方と貴方のお二人を無事に退院されまするように……そうして楽しい結婚生活にお帰りになるように取計らいますのが、やはり、正木先生から御委托を受けました私の、最後の重大な責任となっているので御座います」
若林博士の口調は、私を威圧するかのように緩ゆるやかに、且かつ荘重であった。

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