本の朗読

夢野久作ードグラ・マグラ19


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 その図は、西洋の火焙ひあぶりか何かの光景らしかった。
 三本並んだ太い生木なまきの柱の中央に、白髪、白髯はくぜんの神々しい老人が、高々と括くくり付けられている。その右に、瘠やせこけた蒼白い若者……又、老人の左側には、花輪を戴いた乱髪の女性が、それぞれに丸裸体まるはだかのまま縛り付けられて、足の下に積み上げられた薪から燃え上る焔と煙に、むせび狂っている。
 その酷むごたらしい光景を額面の向って右の方から、黄金色の輿こしに乗った貴族らしい夫婦が、美々しく装うた眷族けんぞくや、臣下らしいものに取巻かれつつも如何いかにも興味深そうに悠然と眺めているのであるが、これに反して、その反対側の左の端には、焔と煙の中から顔を出している母親を慕う一人の小児が、両手を差し伸べて泣き狂うている。それを父親らしい壮漢と、祖父らしい老翁が抱きすくめて、大きな掌てのひらで小児の口を押えながら、貴人達を恐るるかのように振り返っている表情が、それぞれに生き生きと描きあらわしてある。
 又、その中央の広場の真中には、赤い三角型の頭巾ずきんを冠って、黒い長い外套を羽織った鼻の高い老婆がタッタ一人、撞木杖しゅもくづえを突いて立ち佇とどまっているが、如何にも手柄顔に火刑柱ひあぶりばしらの三人の苦悶を、貴人に指し示しつつ、粗まばらな歯を一パイに剥き出してニタニタと笑っている……という場面で、見ているうちにだんだんと真に迫って来る薄気味の悪い画面であった。
「これは何の絵ですか」
 私はその画面を指さして振り返った。若林博士は最前からそうして来た通りに、両手をズボンのポケットに入れたまま冷然として答えた。
「それは欧洲の中世期に行われました迷信の図で、風俗から見るとフランスあたりかと思われます。精神病者を魔者に憑つかれたものとして、片端かたっぱしから焚やき殺している光景を描きあらわしたもので、中央に居おりまする、赤頭巾に黒外套の老婆が、その頃の医師、兼祈祷師、兼卜筮者うらないしゃであった巫女婆みこばばあです。昔は狂人をこんな風に残酷に取扱っていたという参考資料として正木先生が柳河やながわの骨董店こっとうてんから買って来られたというお話です。筆者はレムブラントだという人がこの頃、二三出て来たようですが、もしそうであればこの絵は、美術品としても容易ならぬ貴重品でありますが……」
「……ハア……焚き殺すのがその頃の治療法だったのですね」
「さようさよう。精神病という捉えどころのない病気には用いる薬がありませんので、寧むしろ徹底した治療法というべきでしょう」
 私は笑いも泣きも出来ない気持ちになった。
 そう云って私を見下した若林博士の青白い瞳の中に、学術のためとあれば今にも私を引っ捉えて、黒焼きにしかねない冷酷さが籠こもっていたので……。私は平手で顔を撫でまわしながら挨拶みたように云った。
「今の世の中に生れた狂人は幸福ですね」
 すると又も、若林博士の左の頬に、微笑みたようなものが現われて、すぐに又消え失せて行った。
「……いや……必ずしもそうでないのです。或は一ひと思いに焚き殺された昔の精神病者の方が幸福であったかも知れません」
 私は又も余計な事を云った事を後悔しいしい肩をすぼめた。そういう若林博士の気味のわるい視線を避けつつ、ハンカチで顔を拭いたが、その時に、ゆくりなくも、正面左手の壁にかかっている大きな、黒い木枠の写真が眼についた。
 それは額の禿はげ上った、胡麻塩髯ごましおひげを長々と垂らした、福々しい六十恰好の老紳士の紋服姿で、いかにも温厚な、好人物らしい微笑を満面に湛たたえている。私はその写真に気が付いた最初に、これが正木博士ではないかと思って、わざわざその真正面に行って、正しく向い合ってみたが、どうも違うような気がするので、又も若林博士を振り返った。
「この写真はどなたですか」
 若林博士の顔は、私がこう尋ねると同時に、著いちじるしく柔らいだように見えた。何故だかわからないけれども、今までにない満足らしい輝やきを見せつつ、ゆっくりと頭を下げた。
「……ハイ……その写真ですか。ハイ……それは斎藤寿八先生です。最前も、ちょっとお話をしました通り、正木先生の前にこの精神病科の教室を受持っておられましたお方で、私どもの恩師です」
 そう云ううちに若林博士は軽い、感傷的な歎息ためいきをしたが、やがてその長大な顔に、深い感銘の色をあらわしつつ、悠々と私の方に近付いて来た。
「……やっとお眼に止まりましたね」
「……エッ……」
 と私は驚きながら若林博士の顔を見上げた。そう云う若林博士の言葉の意味がわからなかったので……。しかし若林博士は構わずに、なおも悠々と私に接近すると、上半身を心持ち前に傾けながら、私の顔と写真を見比べて、一層真剣な、叮嚀な口調で言葉を続けた。
「この写真がやっとお眼に止まりました事を申上げているので御座います。何故かと申しますとこの写真こそは、貴方の過去の御生涯と、最も深い関係を結んでいるものに相違ないので御座いますから……」
 こう云われると同時に私はハッと気が付いた。この部屋に這入って来た最初の目的を、いつの間にか忘れていた事を思い出したのであった。そうして、それと同時に何かしら軽い、けれども深い胸の動悸を、心の奥底に感じさせられたのであった。
 けれども又、それと同時に、まだ何一つ思い出したような気がしない、自分の頭の中の状態を考えまわすと、何となく安心したような、又は失望したような気持になって、ほっと一つ肩をゆすり上げた。そうして心持ち俛首うなだれながら若林博士の言葉に耳を傾けた。
「……あなたの中に潜伏しております過去の御記憶は、最前から、極めて微妙に眼醒めかけているように思われるのです。貴方が只今、あの、ドグラ・マグラの原稿からこの狂人焚殺ふんさつの絵を見ておいでになるうちに、眼ざめかけて来ました貴方御自身の潜在意識が、只今、貴方を導いて、この写真の前に連れて来たものとしか思われないのです。何故かと申しますと、彼かの狂人焚殺の名画と、この斎藤先生の御肖像をここに並べて掲げた人は、ほかでも御座いませぬ。あなたの精神意識の実験者、正木先生だからで御座います。……正木先生はあの狂人焚殺の絵に描いてあるような残酷非道な精神病者の取扱い方が、二十世紀の今日に於ても、公然の秘密として、到る処に行われている事実に憤慨されまして、生涯を精神病の研究に捧ぐる決心をされたのですから……。そうして斎藤先生の御指導と御援助の下にトウトウその目的を達しられたのですから……」
「狂人焚殺……狂人の虐殺が今でも行われているのですか」
 と私は独言ひとりごとのように呟つぶやいた。又も底知れぬ恐怖に囚とらわれつつ……。しかし若林博士は平気でうなずいた。
「……行われております。遺憾なく昔の通りに行われております。否。焚やき殺す以上の残虐が、世界中、到る処の精神病院で、堂々と行われているので御座います。今日只今でも……」
「……そ……それはあんまり……」
 と云いさして私は言葉を嚥のみ込んだ。あんまり非道ひどい云い方だと思ったので……。しかし若林博士は動じなかった。私と肩を並べて、狂人焚殺の油絵と、斎藤博士の写真を見比べながら冷然とした口調で私に云い聞かせた。
「あんまりではありませぬ。儼然げんぜんたる事実に相違ないのです。その事実は追々おいおいと、おわかりになる事と思いますが、正木先生は、そうした虐待を受けている憐れな狂人の大衆を救うべく、非常な苦心をされました結果、遂に精神科学に関する空前の新学説を樹たてられる事になったのです。その驚異的な新学説の原理原則と申しますのは、前にもちょっとお話しました通り、極めてわかり易い、女子供にでも理解され得るような、興味深い、卑近な種類のもので……その学説の原理を実際に証明すべく『狂人解放』の実験を初められた訳です……が……しかも、その実験は、もはや、ほかならぬ貴方御自身の御提供によって、申分もうしぶんなく完成されておりますので……あとに残っている仕事と申しますのは唯一つ、貴方が昔の御記憶を回復されまして、その実験の報告書類に、署名さるるばかりの段取りとなっておるので御座います」
 私は又も呆然となった。開あいた口が塞ふさがらないまま、並んで立っている若林博士の横顔を見上げた。そういう私が、何とも形容の出来ない厳粛な、恐ろしい因縁に囚とらわれつつ、この部屋の中に引寄せられて来て、その因縁を作った二つの額縁に向い合わせられたまま、動く事が出来ないように仕向けられているような気がしたので……。しかし若林博士は依然として、そうした私の気持ちに無関係のままスラスラと言葉を続けた。
「……で御座いますからして、斎藤先生と正木先生と、あの狂人焚殺の因果関係をお話し致しますと、そのお話が一々、貴方の過去の御経歴に触れて来るので御座います。すなわち正木先生が、解放治療場に於て、貴方を精神科学の実験にかけるために、どれ程の周到な準備を整えてこの九大に来られたか……この実験に関する準備と研究のために、どのような恐ろしい苦心と努力を払って来られたか……」
「エッ。エッ。僕を実験するために、そんなに恐ろしい準備……」
「そうです、正木先生は実に二十余年の長い時日を、この実験の準備のために費されたので御座います」
「……二十年……」
 こう叫びかけた私の声は、まだ声にならないうちに、一種の唸り声みたようなものになって、咽喉のどの奥に引返した。その正木博士の二十年間の苦心が、そのまま私の頸筋くびに捲き付いて来るような気がしたので……。
 すると今度は若林博士もそうした、私の気持ちを察したらしく又もゆっくりとうなずいた。
「そうです。正木先生は、まだ貴方が、お生れにならない以前から、貴方のためにこの実験を準備して来られたのです」
「……まだ生れない僕のために……」
「さよう。こう申しますと、わざわざ奇矯な云い廻しを致しているように思われるかも知れませぬが、決してそのような訳では御座いませぬ。正木先生はたしかに、貴方がまだお生れにならないズット以前から、貴方の今日ある事を予期しておられたのです。貴方が只今にも、過去の御記憶を回復されました後のちに……否……たとい過去の御記憶を思い出されませずとも、これから私が提供致します事実によって、単に貴方御自身のお名前を推定されましただけでもよろしい。その上で前後の事実を照合てらしあわされましたならば、私の申します事が、決して誇張でありませぬ事実を、御首肯ごしゅこう出来る事と信じます。……又……そう致しますのが、貴方御自身のお名前をホントウに思い出して頂く、最上の、最後の手段ではないかと、私は信じている次第で御座いますが……」

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本の朗読By 前川工作室


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