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「お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様。あんまりですあんまりですあんまりですあんまりですあんまりです……」
そのかよわい……痛々しい、幽霊じみた、限りない純情の怨みの叫び……。
私は頭髪かみを両手で引掴んだ。長く伸びた十本の爪つめで、血の出るほど掻きまわした。
「……お兄さまお兄さまお兄さま。妾は貴方あなたのものです。貴方のものです。早く……早く、お兄様の手に抱き取って……」
私は掌てのひらで顔を烈しくコスリまわした。
……違う違う……違います違います。貴女あなたは思い違いをしているのです。僕は貴女を知らないのです……。
……とモウすこしで叫びかけるところであったが、又ハッと口を噤つぐんだ。そうした事実すらハッキリと断言出来ない今の私……自分の過去を全然知らない……彼女の言葉を否定する材料を一つも持たない……親兄弟や生れ故郷は勿論の事……自分が豚だったか人間だったかすら、今の今まで知らずにいた私……。
私は拳骨を固めて、耳の後部うしろの骨をコツンコツンとたたいた。けれどもそこからは何の記憶も浮び出て来なかった。
それでも彼女の声は絶えなかった。息も切れ切れに……殆ど聞き取る事が出来ないくらい悲痛に深刻に高潮して行った。
「……お兄さま……おにいさま……どうぞ……どうぞあたしを……助けて……助けて……ああ……」
私はその声に追立てられるように今一度、四方の壁と、窓と、扉ドアを見まわした。駈け出しかけて又、立止まった。
……何にも聞えない処へ逃げて行きたい……。
と思ううちに、全身がゾーッと粟立って来た。
入口の扉ドアに走り寄って、鉄かと思われるほど岩乗がんじょうな、青塗の板の平面に、全力を挙げて衝突ってみた。暗い鍵穴を覗いてみた。……なおも引続いて聞こえて来る執念深い物音と、絶え絶えになりかけている叫び声に、痺しびれ上るほど脅やかされながら……窓の格子を両手で掴んで力一パイゆすぶってみた。やっと下の方の片隅だけ引歪める事が出来たが、それ以上は人間の力で引抜けそうになかった。
私はガッカリして部屋の真中に引返して来た。ガタガタ慄ふるえながらモウ一度、部屋の隅々を見まわした。
私はイッタイ人間世界に居るのであろうか……それとも私はツイ今しがたから幽瞑あのよの世界に来て、何かの責苦せめくを受けているのではあるまいか。
この部屋で正気を回復すると同時に、ホッとする間もなく、襲いかかって来た自己忘却の無間地獄……何の反響も無い……聞ゆるものは時計の音ばかり……。
……と思う間もなくどこの何者とも知れない女性の叫びに苛責さいなまれ初めた絶体絶命の活地獄……この世の事とも思われぬほど深刻な悲恋を、救うことも、逃げる事も出来ない永劫の苛責……。
私は踵が痛くなるほど強く地団駄じだんだを踏んだ……ベタリと座り込んだ…………仰向けに寝た……又起上って部屋の中を見まわした。……聞えるか聞えぬかわからぬ位、弱って来た隣室の物音と、切れ切れに起る咽び泣きの声から、自分の注意を引き離すべく……そうして出来るだけ急速に自分の過去を思い出すべく……この苦しみの中から自分自身を救い出すべく……彼女にハッキリした返事を聞かすべく……。
こうして私は何十分の間……もしくは何時間のあいだ、この部屋の中を狂いまわったか知らない。けれども私の頭の中は依然として空虚であった。彼女に関係した記憶は勿論のこと、私自身に就ついても何一つとして思い出した事も、発見した事もなかった。カラッポの記憶の中に、空からっぽの私が生きている。それがアラレもない女の叫び声に逐いまわされながら、ヤミクモに藻掻まわっているばかりの私であった。
そのうちに壁の向うの少女の叫び声が弱って来た。次第次第に糸のように甲走って来て、しまいには息も絶え絶えの泣き声ばかりになって、とうとう以前もとの通りの森閑とした深夜の四壁に立ち帰って行った。
同時に私も疲れた。狂いくたびれて、考えくたびれた。扉の外の廊下の突当りと思うあたりで、カックカックと調子よく動く大きな時計の音を聞きつつ、自分が突立っているのか、座っているのか……いつ……何が……どうなったやらわからない最初の無意識状態に、ズンズン落ち帰って行った……。
「お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様。あんまりですあんまりですあんまりですあんまりですあんまりです……」
そのかよわい……痛々しい、幽霊じみた、限りない純情の怨みの叫び……。
私は頭髪かみを両手で引掴んだ。長く伸びた十本の爪つめで、血の出るほど掻きまわした。
「……お兄さまお兄さまお兄さま。妾は貴方あなたのものです。貴方のものです。早く……早く、お兄様の手に抱き取って……」
私は掌てのひらで顔を烈しくコスリまわした。
……違う違う……違います違います。貴女あなたは思い違いをしているのです。僕は貴女を知らないのです……。
……とモウすこしで叫びかけるところであったが、又ハッと口を噤つぐんだ。そうした事実すらハッキリと断言出来ない今の私……自分の過去を全然知らない……彼女の言葉を否定する材料を一つも持たない……親兄弟や生れ故郷は勿論の事……自分が豚だったか人間だったかすら、今の今まで知らずにいた私……。
私は拳骨を固めて、耳の後部うしろの骨をコツンコツンとたたいた。けれどもそこからは何の記憶も浮び出て来なかった。
それでも彼女の声は絶えなかった。息も切れ切れに……殆ど聞き取る事が出来ないくらい悲痛に深刻に高潮して行った。
「……お兄さま……おにいさま……どうぞ……どうぞあたしを……助けて……助けて……ああ……」
私はその声に追立てられるように今一度、四方の壁と、窓と、扉ドアを見まわした。駈け出しかけて又、立止まった。
……何にも聞えない処へ逃げて行きたい……。
と思ううちに、全身がゾーッと粟立って来た。
入口の扉ドアに走り寄って、鉄かと思われるほど岩乗がんじょうな、青塗の板の平面に、全力を挙げて衝突ってみた。暗い鍵穴を覗いてみた。……なおも引続いて聞こえて来る執念深い物音と、絶え絶えになりかけている叫び声に、痺しびれ上るほど脅やかされながら……窓の格子を両手で掴んで力一パイゆすぶってみた。やっと下の方の片隅だけ引歪める事が出来たが、それ以上は人間の力で引抜けそうになかった。
私はガッカリして部屋の真中に引返して来た。ガタガタ慄ふるえながらモウ一度、部屋の隅々を見まわした。
私はイッタイ人間世界に居るのであろうか……それとも私はツイ今しがたから幽瞑あのよの世界に来て、何かの責苦せめくを受けているのではあるまいか。
この部屋で正気を回復すると同時に、ホッとする間もなく、襲いかかって来た自己忘却の無間地獄……何の反響も無い……聞ゆるものは時計の音ばかり……。
……と思う間もなくどこの何者とも知れない女性の叫びに苛責さいなまれ初めた絶体絶命の活地獄……この世の事とも思われぬほど深刻な悲恋を、救うことも、逃げる事も出来ない永劫の苛責……。
私は踵が痛くなるほど強く地団駄じだんだを踏んだ……ベタリと座り込んだ…………仰向けに寝た……又起上って部屋の中を見まわした。……聞えるか聞えぬかわからぬ位、弱って来た隣室の物音と、切れ切れに起る咽び泣きの声から、自分の注意を引き離すべく……そうして出来るだけ急速に自分の過去を思い出すべく……この苦しみの中から自分自身を救い出すべく……彼女にハッキリした返事を聞かすべく……。
こうして私は何十分の間……もしくは何時間のあいだ、この部屋の中を狂いまわったか知らない。けれども私の頭の中は依然として空虚であった。彼女に関係した記憶は勿論のこと、私自身に就ついても何一つとして思い出した事も、発見した事もなかった。カラッポの記憶の中に、空からっぽの私が生きている。それがアラレもない女の叫び声に逐いまわされながら、ヤミクモに藻掻まわっているばかりの私であった。
そのうちに壁の向うの少女の叫び声が弱って来た。次第次第に糸のように甲走って来て、しまいには息も絶え絶えの泣き声ばかりになって、とうとう以前もとの通りの森閑とした深夜の四壁に立ち帰って行った。
同時に私も疲れた。狂いくたびれて、考えくたびれた。扉の外の廊下の突当りと思うあたりで、カックカックと調子よく動く大きな時計の音を聞きつつ、自分が突立っているのか、座っているのか……いつ……何が……どうなったやらわからない最初の無意識状態に、ズンズン落ち帰って行った……。
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