本の朗読

夢野久作ードグラ・マグラ5


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 ……コトリ……と音がした。

 気が付くと私は入口と反対側の壁の隅に身体を寄せかけて、手足を前に投げ出して、首をガックリと胸の処まで項垂れたまま、鼻の先に在る人造石の床の上の一点を凝視していた。

 見ると……その床や、窓や、壁は、いつの間にか明るく、青白く光っている。

 ……チュッチュッ……チョンチョン……チョン……チッチッチョン……。

 という静かな雀の声……遠くに辷って行く電車の音……天井裏の電燈はいつの間にか消えている。

 ……夜が明けたのだ……。

 私はボンヤリとこう思って、両手で眼の球たまをグイグイとコスリ上げた。グッスリと睡ったせいであったろう。今朝、暗いうちに起った不可思議な、恐ろしい出来事の数々を、キレイに忘れてしまっていた私は、そこいら中が変に剛ばって痛んでいる身体を、思い切ってモリモリモリと引き伸ばして、力一パイの大きな

欠伸をしかけたが、まだ充分に息を吸い込まないうちに、ハッと口を閉じた。

 向うの入口の扉ドアの横に、床とスレスレに取付けてある小さな切戸が開いて、何やら白い食器と、銀色の皿を載せた白木の膳が這入って来るようである。

 それを見た瞬間に、私は何かしらハッとさせられた。無意識のうちに今朝からの疑問の数々が頭の中で活躍し初めたのであろう。……吾われを忘れて立上った。爪先走りに切戸の傍に駈け寄って、白木の膳を差入れている、赤い、丸々と肥った女の腕を狙いすまして無手と引っ掴んだ。……と……お膳とトースト麺麭と、野菜サラダの皿と、牛乳の瓶とがガラガラと床の上に落ち転がった。

 私は嗄れた声を振り絞った。

「……どうぞ……どうぞ教えて下さい。僕は……僕の名前は、何というのですか」

「……………………」

 相手は身動き一つしなかった。白い袖口から出ている冷めたい赤大根みたような二の腕が、私の左右の手の下で見る見る紫色になって行った。

「……僕は……僕の名前は……何というのですか。……僕狂人でも……何でもない……」

「……アレエ――ッ……」

 という若い女の悲鳴が切戸の外で起った。私に掴まれた紫色の腕が、力なく藻掻き初めた。

「……誰か……誰か来て下さい。七号の患者さんが……アレッ。誰か来てェ――ッ……」

「……シッシッ。静かに静かに……黙って下さい。僕は誰ですか。ここは……今はいつ……ドコなんですか……どうぞ……ここは……そうすれば離します……」

 ……ワ――アッ……という泣声が起った。その瞬間に私の両手の力が弛んだらしく、女の腕がスッポリと切戸の外へ脱け出したと思うと、同時に泣声がピッタリと止んで、廊下の向うの方へバタバタと走って行く足音が聞えた。


 一所懸命に縋り付いていた腕を引き抜かれて、ハズミを喰った私は、固い人造石の床の上にドタリと尻餅を突いた。あぶなく引っくり返るところを、両手で支え止めると、気抜けしたようにそこいらを見まわした。

 すると……又、不思議な事が起った。

 今まで一所懸命に張り詰めていた気もちが、尻餅を突くと同時に、みるみる弛んで来るに

連れて、何とも知れない可笑しさが、腹の底からムクムクと湧き起り初めるのを、どうすることも出来なくなった。それは迚もタマラナイ程、変テコに可笑しい……頭の毛が一本毎にザワザワとふるえ出すほどの可笑しさであった。魂のドン底からセリ上って、全身をゆすぶり上げて、あとからあとから止め度もなく湧き起って、骨も肉もバラバラになるまで笑わなければ、笑い切れない可笑しさであった。

 ……アッハッハッハッハッ。ナアーンだ馬鹿馬鹿しい。名前なんてどうでもいいじゃないか。忘れたってチットモ不自由はしない。俺は俺に間違いないじゃないか。アハアハアハアハアハ………。

 こう気が付くと、私はいよいよたまらなくなって、床の上に引っくり返った。頭を抱えて、胸をたたいて、足をバタバタさせて笑った。笑った……笑った……笑った。涙を嚥んでは咽せかえって、身体を捩じらせ、捻じりまわしつつ、ノタ打ちまわりつつ笑いころげた。

……アハハハハ。こんな馬鹿な事が又とあろうか。
……天から降ったか、地から湧いたか。エタイのわからない人間がここに一人居る。俺はこんな人間を知らない。アハハハハハハハ……。
……今までどこで何をしていた人間だろう。そうしてこれから先、何をするつもりなんだろう。何が何だか一つも見当が附かない。俺はタッタ今、生れて初めてこんな人間と識り合いになったのだ。アハハハハハ…………。
……これはどうした事なのだ。何という不思議な、何という馬鹿げた事だろう。アハ……アハ……可笑しい可笑しい……アハアハアハアハアハ……。
……ああ苦しい。やり切れない。俺はどうしてコンナに可笑しいのだろう。アッハッハッハッハッハッハッ……。

 私はこうして止め度もなく笑いながら、人造石の床の上を転がりまわっていたが、そのうちに私の笑い力が尽きたかして、やがてフッツリと可笑しくなくなったので、そのままムックリと起き上った。そうして眼の球をコスリまわしながらよく見ると、すぐ足の爪先の処に、今の騒動のお名残りの三切れのパンと、野菜の皿と、一本のフォークと、栓をしたままの牛乳の瓶とが転がっている。

 私はそんな物が眼に付くと、何故という事なしにタッタ一人で赤面させられた。同時に堪え難い空腹に襲われかけている事に気が付いたので、傍に落ちていた帯を締め直すや否や、右手を伸ばして、生温かい牛乳の瓶を握りつつ、左手でバタを塗すくった焼麺麭パンを掴んでガツガツと喰いはじめた。それから野菜サラダをフォークに突っかけて、そのトテモたまらないお美味いしさをグルグルと頬張って、グシャグシャと噛んで、牛乳と一緒にゴクゴクと嚥み込んだ。そうしてスッカリ満腹してしまうと、

背後

に横わっている寝台の上に這い上って、新しいシーツの上にゴロリと引っくり返って、長々と伸びをしながら眼を閉じた。


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本の朗読By 前川工作室


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