本の朗読

夢野久作ードグラ・マグラ8


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 ……けれども……その次の瞬間に私は、顔を上げる事も出来ないほどの情ない気持に迫られて、われ知らず項垂れてしまったのであった。

……ここはたしかに九州帝国大学の中の精神病科の病室に違いない。そうして私は一個の精神病患者として、この七号室? に収容されている人間に相違ないのだ。
……私の頭が今朝、眼を醒した時から、どことなく変調子なように思われて来たのは、何かの精神病に罹かかっていた……否。現在も罹っている証拠なのだ。……そうだ。私はキチガイなのだ。
……鳴呼。私が浅ましい狂人きちがい……。

 ……というような、あらゆるタマラナイ恥かしさが、

叮嚀過ぎるくらい叮嚀な若林博士の説明によって、初めて、ハッキリと意識されて来たのであった。それに連れて胸が息苦しい程ドキドキして来た。恥かしいのか、怖ろしいのか、又は悲しいのか、自分でも判然らない感情のために、全身をチクチクと刺されるような気がして、耳から首筋のあたりが又もカッカと火熱って来た。……眼の中が

自然と熱くなって、そのままベッドの上に突伏したいほどの思いに

充されつつ、かなしく

両掌を顔に当てて、眼がしらをソッと押え付けたのであった。

 若林博士は、そうした私の態度を見下しつつ、二度ばかりゴクリゴクリと音を立てて、

唾液を呑み込んだようであった。それから、恰も、貴い身分の人に対するように、両手を前に束ねて、今までよりも一層親切な響をこめながら、殆ど猫撫で声かと思われる口調で私を慰めた。

「御尤もです。重々、御尤もです。どなたでもこの病室に御自分自身を発見されます時には、一種の絶望に近い、打撃的な感じをお受けになりますからね。……しかし御心配には及びませぬ。貴方はこの病棟に這入っている他の患者とは、全く違った意味で入院しておいでになるのですから……」

「……ボ……僕が……ほかの患者と違う……」

「……さようで……あなたは只今申しました正木先生が、この精神病科教室で創設されました『狂人の解放治療』と名付くる劃時代的な精神病治療に関する実験の中でも、最貴重な研究材料として、御一身を提供された御方で御座いますから……」

「……僕が……私が……狂人の解放治療の実験材料……狂人を解放して治療する……」

 若林博士は心持ち上体を前に傾けつつ首肯いた。「狂人解放治療」という名前に敬意を表するかのように……。

「さようさよう。その通りで御座います。その『狂人解放治療』の実験を創始されました正木先生の御人格と、その編み出されました学説が、如何に劃時代的なものであったかという事は、もう間もなくお解りになる事と思いますが、しかも……貴方は既に、貴方御自身の脳髄の正確な作用によって、その正木博士の新しい精神科学の実験を、驚くべき好成績の

裡に御完成になりまして、当大学の名前を全世界の学界に印象させておいでになったので御座います。……のみならず貴方は、その実験の結果としてあらわれました強烈な精神的の

衝動のために御自身の意識を全く喪失しておられましたのを、現在、只今、あざやかに回復なされようとしておいでになるので御座います。……で御座いますから、申さば貴方は、その解放治療場内で行われました、或る驚異すべき実験の中心的な代表者でおいでになりますと同時に、当九大の名誉の守り神とも申すべきお方に相違ないので御座います」

「……そ……そんな恐ろしい実験の中心に……どうして僕が……」

 と私は思わず急き込んで、寝台の端にニジリ出した。あまりにも怪奇を極めた話の中心にグングン捲き込まれて行く私自身が恐ろしくなったので……。その私の顔を見下しながら、若林博士は今迄よりも一層、冷静な態度でうなずいた。

「それは誠に御尤も千万な御不審です。……が……しかしその事に就ましては遺憾ながら、只今ハッキリと御説明申上る訳に参りませぬ。いずれ遠からず、あなた御自身に、その経過を思い出されます迄は……」

「……僕自身に思い出す。……そ……それはドウして思い出すので……」

 と私は一層急き込みながら口籠った。若林博士のそうした口ぶりによって、又もハッキリと精神病患者の情なさを思い出させられたように感じたので……。

 しかし若林博士は騒がなかった。静かに手を挙げて私を制した。

「……ま……ま……お待ち下さい。それは斯様な仔細で御座います。……実を申しますと貴方が、この解放治療場にお這入りになりました経過に就きましては、実に、一朝一夕に尽されぬ深刻複雑な、不可思議を極めた因縁が伏在しておるので御座います。しかもその因縁のお話と申しますのは、私一個の考えで前後の筋を纏めようと致しますと、全部が虚構になって終う虞れがありますので……詰るところそのお話の筋道に、直接の体験を持っておいでになる貴方が、その深刻不可思議な体験を御自身に思い出されたものでなければ、誰しも真実のお話として信用する事が出来ないという……それほど左様に幻怪、驚異を極めた因縁のお話が貴方の過去の御記憶の中に含まれているので御座います……が併し……当座の御安心のために、これだけの事は御説明申上ても差支えあるまいと思われます。……すなわち……その『狂人の解放治療』と申しますのは、本年の二月に、正木先生が当大学に赴任されましてから間もなく、その治療場の設計に着手されましたもので、同じく七月に完成致して、僅々四箇月間の実験を行われました後、今からちょうど一箇月前の十月二十日に、正木先生が亡くなられますと同時に閉鎖される事になりましたものですが、しかも、その僅かの間に正木先生が行われました実験と申しますのは、取りも直さず、貴方の過去の御記憶を回復させる事を中心と致したもので御座いました。そうしてその結果、正木先生は、ズット以前から一種の特異な精神状態に陥っておられました貴方が、遠からず今日の御容態に回復されるに相違ない事を、明白に予言しておられたので御座います」

「……亡くなられた正木博士が……僕の今日の事を予言……」

「さようさよう。貴方を当大学の至宝として、大切に御介抱申上げているうちには、キット元の通りの精神意識に立ち帰られるであろう。その正木先生の偉大な学説の原理を、その原理から生れて来た実験の効果を、御自身に証明されるであろうことを、正木先生は断々乎として言明しておられたので御座います。……のみならず、果して貴方が、正木先生のお言葉の通りに、過去の御記憶の全部を回復される事に相成りますれば、その必然的な結果として、貴方が嘗て御関係になりました、殆んど空前とも申すべき怪奇、悽愴を極めた犯罪事件の真相をも、同時に思い出されるであろう事を、かく申す私までも、信じて疑わなかったので御座います。むろん、只今も同様に、その事を固く信じているので御座いますが……」

「……空前の……空前の犯罪事件……僕が関係した……」

「さよう。とりあえず空前とは申しましたものの、或は絶後になるかも知れぬと考えられておりますほどの異常な事件で御座います」

「……そ……それは……ドンナ事件……」

 と、私は息を吐く間もなく、寝台の端に乗り出した。



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本の朗読By 前川工作室


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