流れのほとりに

さばきと来臨に目を啓いて(ヨハネの黙示録1章7節~8節)


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序)キリスト教の欧米化によって起こったこと

・「さばき」「神の審判」のイメージが偏っていないだろうか。

1)「さばき(シャファット)」の本来的意味

・「さばき」をする人を聖書は「さばきつかさ(士師)」と呼ぶ。共同体全体を、正義と平和が実現するよう指導をすること。

・「さばきつかさ」は侵略者との戦争の指揮もとった。

・「さばき」には、民同士の争いの仲裁、違反者を罰し矯正し、弱い者の権利を擁護することも含まれる。

→キリスト教の欧米化と「天国止まりの福音」によって「さばき」の豊かなイメージは失われ、断罪し、信仰の有無を調べることに偏ってしまった。

→神の国の福音にとって「さばき」はできれば遠ざけたいものではなく、必要不可欠なものである。「さばき」と「救い」はコインの裏表

2)「神の来臨」から失われた意味

・旧約で「神が来られる」というとクリスマス(初臨)の予告で、新約で「神(イエス)が来られる」というと再臨のことだとすぐに考えやすい。しかしそれは意味を狭くしている。

・「神が来られる」=「神のさばきが行われる」ことを意味する慣用句でもある。用例として、ダニエル書 7:22 参照。

・「主(あってあるもの)」を黙示文学風にパラフレーズすると「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」(4 節、8 節)となるが「やがて来られる方」という部分は「今来ている方」「来るべき方」とも訳せる。「来る」の意味が狭くなると未来形で理解されてしまうが、これは現在形である。

3)「イエス様は雲とともに来られる」の意味は「再臨」だけではない

・再臨に限定すると「すべての目が彼を見る」を説明するために無用な議論が起こる。黙示録が象徴による伝達であることを忘れてはいけない!

・「来られる」は現在形で書かれている。「見る」「胸をたたいて悲しむ」は未来形であり、ニュアンスの差があることが翻訳し切れていない。

・「雲とともに」は「神の権威を帯びる」ことの象徴であり、神が来る=さばきを行う(=王の務め)だから、イエス様が神の国の王になっているという宣言である。「見る」ことは霊的に目が啓かれて気づくことであり、「胸をたたいて悲しむ」のは悔い改めの表現である。

・ダニエル書 7 章とゼカリヤ書 12 章が混ぜ合わされて引用されている。

結)7 節は黙示録の序曲:イエスは御国のためにさばきを行う!

・「主よ、来て下さい(マラナ・タ!)」との祈りは、再臨を待つだけではなく、自分たちが神の国司、国府として整えられることを求めるもの。

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流れのほとりにBy キリスト教たんぽぽ教会


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