2024年1月14日 公現後第2主日
説教題:神はどこにいるの?
聖書:ヨハネによる福音書 1:14−18、出エジプト記 40:34−38、ローマの信徒への手紙 6:23、詩編 15
説教者:稲葉基嗣
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【説教要旨】
聖書は、神の居る場所について、神は天にいると答えます。けれど、神は、天のみをご自分の居場所とはしませんでした。旧約聖書を読むとき、山や神殿などの特定の場所が神が自らを人びとの前で明らかにする、聖なる場所として受け止められています。
そのことを念頭に、ヨハネ1:14の言葉を読むとき、とても大きな驚きが伴います。神の子が人となって、わたしたちの間に宿ったということは、天を居場所とする神が、地上を居場所とすることを選んだということなのですから。わたしたち人間の努力や能力では、決して入り込むことができないのが、神のおられる天という場所です。その天から、神が地に来られたということは、わたしたち人間の側からは、決して乗り越えることができない境界線を神の側が乗り越えて、人間の側に来てくださったということです。
この地上を自らの居場所とするために、神が選んだ方法は、神が人となり、人間の弱さをその身に引き受けることでした。なぜ多くの制約を引き受けてまで、神はわたしたちがいる場所をご自分の場所としようと願ったのでしょうか。きっと、神は居ても立ってもいられなかったのでしょう。愛と憐れみに、突き動かされてしまったのでしょう。「神はどこにいるのか?」と思い悩み、この世界のさまざまな出来事に苦しむわたしたちを遠くの方から見て、遠くの方から支援するのではなく、そばに来て、その弱さや悩みを知った上で、神は、わたしたちと共に生きようと決断しました。
神のその決断は、「わたしたちの間に宿った」という言葉にも強く表されています。「テントを張って生活をする」という意味の単語が、「宿る」と日本語訳されています。移動を前提としたテント生活よりも、ひとつの場所に留まる定住のイメージの方が、神が人となって、わたしたちと共にいることを強く印象付けられる気がします。けれど、ヨハネがテント生活の方を選んだのは、この言葉を通して、イスラエルの民が荒野を放浪していたときに用いられた、移動式の礼拝所である、幕屋を思い起こして欲しかったからでしょう。
古代の人びとにとって、秩序もなく、命のない場所である荒野を放浪していた、イスラエルの旅で、幕屋は彼らと一緒に移動をしました。それは、いのちの源である神が荒野の旅の中でも共にいて、神が無秩序の中を一緒に歩んでくださることの大きな象徴でした。
同じように、キリストも、わたしたちの人生の旅路に伴ってくださいます。無秩序で、荒れ果てた荒野のように思える道を歩んでいたとしても、キリストはわたしたちの人生を導くいのちの光として、天のみ国へと至るまでの道を一緒に歩み続けてくださいます。