2024年1月7日 公現後第1主日
説教題:誰が光を指し示す?
聖書:ヨハネによる福音書 1:1−13、イザヤ書 6:1−8、コリントの信徒への手紙 二 4:5−6、詩編 121
説教者:稲葉基嗣
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【説教要旨】
ヨハネ福音書は、光という言葉をとても象徴的に用いる福音書です。それは、すべての人に救いを与える希望として、キリストを指し示す言葉です。わたしたちは、暗闇の中でこそ、光の持つその輝きに気づき、希望を抱きます。福音書記者ヨハネが、キリストを光と伝えているのは、彼が、闇の深まりを実感していたからなのでしょう。
形は違えど、暗闇が世界に深まっていくことをわたしたちも経験しています。大切な人の死を経験することや、病気や挫折を経験することは、時として、わたしたちの目の前を真っ暗にします。この世界が暗闇で覆われているとわたしたちが実感させられるのは、暴力と不正義によって人びとの泣き叫ぶ声がやまないことです。
また、一年の始まりに、石川県の能登半島を襲った地震によって、決して明るいばかりの世界ではないことを思い知らされました。大切な人たちを失い、慣れ親しんだ生活環境を失い、避難生活を余儀なくされた人たちがいます。連日のように報じられる被害状況に言葉を失う思いです。
このようにして、実に、さまざまな形でこの世界に暗闇が広がっています。世界の暗闇が深まるとき、わたしたちは一体どんな反応をしているでしょうか?闇が深まれば深まるほど、言葉を失っていく。そんな感覚を覚えます。
だからこそ、ヨハネがイエス・キリストを紹介する方法は、とても印象深いものです。暗闇に覆われ、語るべき言葉を失った世界に、命を与える神の言葉が訪れる。言葉を失ったわたしたちのもとに光を与える神の言葉が来た、と言うのですから。
それなのに、なぜ暗闇はこの世界で広がり、深まり続けているのでしょうか?ヨハネにとって、その理由は明確です。この世界が神の言葉である、イエスさまを受け入れなかったからです。それもそのはずです。キリストは人びとが望むような形では来なかったのですから。キリストは、この世界の悪を一掃するような、力強い光としては来ませんでした。むしろ、イエスさまは、目立たない光として、わたしたちのもとにやって来ました。強く輝いたとしても、その光が当たらない場所には、暗闇が残り続けるからでしょう。だから、神は、小さく、目立たないけれども、たしかに闇の中で輝き続ける光として、イエスさまをわたしたちのもとに送りました。
それは、イエスさまを確かな光として受け止め、ここに光があると知った人を通して、光が広がっていくためです。主キリストを通して与えられる光が、わたしたちにとっての光として認識され、受け止められるためには、この世界の中で、キリストを指し示す人が必要です。私たち自身によって、キリストが光であることが暗闇の中で示されるのです。これが、この世界に光を届けるために、神が選ばれた方法でした。