小山ナザレン教会

それでも、とりなしの祈りは終わっていない(稲葉基嗣) – アモス7:1−6


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2023年6月18日  三位一体後第2主日

聖書:アモス書7:1−6、ルカによる福音書22:31−34、ヘブライ人への手紙7:24−25、詩編32

説教題:それでも、とりなしの祈りは終わっていない

説教者:稲葉基嗣


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【説教要旨】

最初のふたつの幻で、北王国の広範囲に及ぶ神の裁きが語られています。バッタの大量発生は農作物に大きな被害を与え、飢えをもたらします。ふたつめの幻では、火が大いなる深淵をなめ尽くします。深淵(テホーム)は、地下の水のことであり、地上全体の水の源です。深淵から水が取り去られたら、水を得る手段はなくなり、土地は乾いてしまいます。もしもこれら最初のふたつの幻が実際に実行されてしまったならば、あまりにも悲惨な結末が訪れたことが想像されます。

アモスがこの幻の内容を知らされた時、彼は居ても立ってもいられなくなり、神の前に立つことを決めました。

「主なる神よ、どうかお赦しください。どうかおやめください。」(2節、5節)

神はアモスの訴えを聞き、「このことは起こらない」と、二度約束します(3節、6節)。アモスは、イスラエルに対する神の憐れみにたしかに触れました。でも、アモスが神の決断に抵抗するのはここまででした。3つ目の幻以降、アモスはイスラエルのためにとりなし祈ることをしません。ただ、神と対話を重ね、神の思いを知ることにアモスは努めています。でも、正直なところ、アモスは神に対してイスラエルのためのとりなしの祈りをやめるべきではなかったのではないかと思ってしまいます。なぜアモスは諦めてしまったのかと感じてしまいます。

いいえ、アモスには、とりなしの祈りをやめる道しか残されていなかったのでしょう。神との対話を通して、北王国の罪がどれほど大きく、神にとってその罪が耐え難く、神を悲しめることであったかをアモスは知ってしまったのです。だから、アモスはとりなしの祈りをやめました。

積み重なる人間の罪の前には、何も希望はないのでしょうか。アモスが諦めてしまったほどですから、誰も神の前に立ってとりなし祈ることは出来ないのでしょうか。人間の罪を前にしたとき、預言者はとりなし続けることしかできませんでした。罪を裁く神に同意して、神の裁きに触れた人々が、神に立ち返る日の訪れを期待することしか、この預言者は選ぶことができませんでした。

けれど、イエス・キリストは、別の道をひらいてくださいました。それは、イエスさまが神の前に立って、とりなし祈り続ける道です。また、イエスさまを通して、わたしたちが罪の赦しを得るという道です。それは、どれほど罪を抱えていようとも、変わることのない事実です。イエスさまはどこまでもわたしたちを諦める方ではありません。だから、わたしたちは神から裁きを受ける恐怖を抱くのではなく、イエスさまを通して罪の赦しを得ていることへの感謝と喜びを抱いて、この信仰の旅路をきょうも歩んでいます。

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