小山ナザレン教会

慰めを待ち望む(稲葉基嗣) – 創世記 5:1–32


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2025年7月27日 三位一体後第6主日

説教題:慰めを待ち望む

聖書: 創世記 5:1–32、コリントの信徒への手紙 二 1:3–7、詩編 23、マタイによる福音書 5:4

説教者:稲葉基嗣

 

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古代のユダヤ人たちにとって、系図は、彼らの出自や他の人との親戚関係などを伝える重要なものでしたが、現代人にとっては、とても退屈なものです。その退屈さの原因のひとつは、お決まりのパターンが繰り返されるためでしょう。けれども、この系図には全部で3つの脱線があります。ひとつ目は、アダムについての記録の中で、すべての人が神のかたちに造られた、とても尊い存在だと宣言されて、この系図は始まっています(1−5節)。けれども、この系図で「そして彼は死んだ」と、何度も繰り返し伝えられています。それは、人間の過ちを思い起こさせる響きを持っています(2:17参照)。しかし、この系図において、すべての人の死が描かれているわけではありません。この系図は、エノクとノアの死を描きませんでした。これが第二、第三の脱線です。エノクは、神と共に歩んだ人として紹介されています。悪い流れを断ち切って、神と共に歩むことができる。そんな希望を感じさせる脱線をこの系図は行っているのです。けれども、この系図が最も強調したいのは、最後に登場する、ノアの方です。父レメクは「この子は、主が土を呪われたゆえの、私たちの手の働きと労苦から、私たちを慰めてくれるであろう」(29節)と言って、ノアに希望を見出しています。けれども、やはり、ノアは真実の慰めとはなりませんでした。ノアの存在は、慰めを神や人々に与える一方で、何の解決策も、救いも、解放も与えませんでした。「慰め」を望まれたノアを通して、人々が慰めを得ることができないならば、私たちにとっての慰めは、どこにあるのでしょうか。パウロは、神こそが慰めの源であると示した後、キリストを指さします。キリストのもとにこそ、慰めがあるからです。神と共に歩むよりも、神に背を向けて歩むことを選んでしまう。そんな私たちをどこまでも赦し、常に受け止め、神の子として歩むようにと、いつも招き続けているイエスさまは、まさに私たちにとっての慰めです。そして何よりも、死者の中からよみがえり、復活の希望にあふれる命を示し続けるよみがえりの主であるイエスさまは、私たちにとって、真実の慰めです。パウロは神からの慰めは、自分たちだけで握りしめるようなものじゃないと、コリント教会の人たちに教えています。キリストにある、神の慰めは、私たちがお互いに分かち合えるものです。キリストを通して神から慰めを受けた私たちは、その慰めをお互いに手渡すことができます。系図のように、次の世代へ。そして、共に生きるあらゆる人たちのもとへ。

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