文芸批評は、「不透明な批評」と「透明な批評」に分類されます。「不透明な批評」というのは、対象とする作品を言語的な構築物として捉え、その形式上の仕組みを作品の外側から分析する方法です。対して「透明な批評」は、作品世界と読者の世界との間の仕切りを取って、作品の中に入り込んで論じるような方法です。前者は、作品に描かれた客観的事実だけが批評の対象ですが、後者では作品に描かれていないこと、例えば「桃太郎の黍団子が不味かったら、犬と猿と雉は鬼退治を手伝ってくれたか?」といった問題設定を立てたりします。
「透明な批評」は作品からの逸脱として嫌われる面もありますが、自由な想像は物語を読む楽しみの一つでもあります。また、「もしも私が主人公なら」という仮定は、道徳の時間や読書感想文には欠かせない常套句です。
中一国語教科書には、ノーベル賞作家ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」という小説が、60年以上もの間、掲載され続けています。日本では有名なのに、本国ドイツではほとんど知られていないという少し変わった作品です。
物語は、「私」の家に訪れた客の「僕」が、「私」の蝶の標本を見て、蝶の採集に夢中だった少年の日に犯した出来事を語るというものです。少年の日の「僕」は、エーミールという子が持つ珍しい蛾の標本を盗んだ上に傷つけてしまいます。エーミールに謝りに行くのですが、軽蔑の目で冷たくあしらわれた「僕」は、「一度起きたことは、もう償いのできないものだ」と悟り、自分の集めた蝶を全て押しつぶすのでした。
この作品について、もし自分が「僕」だったらという感想を述べ合い、「僕」の心情やエーミールの言動について、互いに共感したり、反発したりしながら、道徳的な議論をすることには、もちろん意義があります。「透明な批評」。
しかし、今一度「不透明な批評」に戻り、作品の客観的な構成に目を向けてみます。この物語は一見、「僕」が「私」に語った話という構造に見えます。でも、実際にこの物語を読者に語っているのは「私」です。そして、その読者の中には「僕」も含まれ得るのです。苦い少年の日の思い出を第三者である「私」に語り直されることで、その暗い思い出は客観化・相対化され、僕の中の怒りや屈辱や罪悪感が、ようやく氷解していくのです。「僕」と一体となった読者が「僕」の立場に立ってその気持ちを理解しようとする主観的な「透明な批評」の存在が、「僕」の立場を公平に批評できる客観的な構成の中で、それを保証しています。