倫理記号の恣意性
第6回
「自由って何?」
現代の国際社会は、人権を守ることが最大の正義とされています。そして、人権の中でも第一に尊重されるのは自由権ですが、そもそも自由とは何なのでしょう。
一般的には、誰かに強制されることなく自分の思うように行動することが自由だと考えられています。あらゆる価値よりも自由を貴ぶことを正義と考えるリバタリアン≪自由至上主義者≫は、自由についてのこうした考え方を徹底し、特に経済活動の自由を掲げて、ビジネスに制限を加える権力を批判し、市民の財に税を課す政府を泥棒と呼びます。また、ロックやパンクなどの音楽に代表されるカウンターカルチャーは、社会の中にある様々な支配構造を破壊して、全ての人々が自分の望む生き方の出来る世界を理想とします。
しかし、現代の自由主義思想の源流となったヨーロッパの近代哲学には、現代人の考える自由とは対照的な自由の概念がありました。十八世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントの考えた自由とは、自然法則に支配された生理的な欲求に対する自由、欲望の意のままにならず道徳的に行動する自由でした。人間以外の動物が自然法則である本能に支配されて行動しているのに対し、理性を持つ人間だけが自らの生理的な決定から自由になれる存在なのだと、カントは言ったのです。
彼は、理性に沿った自由意志による行動にも二種類あると説明します。一つは仮言命法と言い、何らかの欲求を果たすために必要なことを理性で判断し実行することです。もう一つは定言命法と言い、理性の定める道徳律に従って行動することを指します。仮言命法は「欲求を果たすため」という条件を常に伴い自然法則の支配下にあるため、真の自由な行動とは言えませんが、定言命法は無条件に倫理的理性に沿った行動になるため、自己の内なる自然法則から完全に自由な状態となります。
重力の下で今あなたが手にしているものを手離せば、その物体は床に落ちるでしょう。人間ならだれでも共通した理性的認識に沿ってそう判断します。理性とはそのように、あらゆる人間に共通した認識をもたらします。道徳についても、同じ条件の下では人間には共通した実践理性が働くため、道徳律は人類普遍なものであるとカントは考えました。そして、「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的法則となるように行為せよ」と言います。「格率」とは人間がそれぞれに持つ自己の判断基準であり、それが万人の共有する倫理基準と矛盾しない定言命法に適ったものとなるように行動せよというわけです。
現代の自由主義者が、自由を守ることこそ正義だと考えているのに対し、カントは、正義を守ることこそが自由だと考えていたのです。